論語と算盤~その4

【師弟関係】
現代の師弟関係は乱れてしまって、生徒は教師を落語家か講談師のように見ている。「講義が下手だ」とか「解釈が劣っている」とか、生徒としてあってはならない口を利いている。青年はよい師匠に接して、自分を磨かねばならない。昔は心の学問ばかりだったが、今は知識を身につけることばかりに力を注いでいる。昔の書籍はどれも「心を磨くこと」を説き、自分を磨いたら家族をまとめ、国をまとめ、天下を安定させる役割を担うという、人の踏むべき道を教えていた。

今は小学校から多くの学科を学び、中学や大学に進んでたくさんの知識を積むようになったが、精神を磨くことをなおざりにして、心の学問に力を尽くさない。『論語』にも「昔の人間は自分を向上させるために学問をした。今の人間は名前を売るために学問をする」という嘆きが収録されている。(P.191-193)

何度も繰り返すが、特に小中学生の学習指導で最も大切なことは「チェック機能」だ。
中途半端に再生回数の上がらない自作動画の配信にこだわるよりも、既に流通している映像教材を活用して、先生はチェック機能に特化した方が良い、と。

上には上がいる。

ただ、どれだけ凄い動画配信であっても、生徒側がパソコンやタブレットに集中出来るのはせいぜい90分が限度だろう。一方通行ではなく双方向であったとしても、よほどの集中力または興味・関心がなければ、90分も過ぎれば気分も散漫になってくるし、そもそも目が痛くなる。

だから先生は、<その生徒がどの映像配信を受けるかのコーディネート>と<紙教材を用いたチェック機能>に特化すべきだ。

そういった生徒個々の特性に応じた対応でなく、とりあえず全員一律で端末を持たせて「オンライン授業を行うこと」が目的化してしまったら、結局それは現実の教室よりも更に厳しい「落ちこぼれ」と「吹きこぼれ」を生むことになり、学校そのものが淘汰に向かって自滅していくことになる。

もう一つ大切なのは、YouTubeを見てよく分かることだが、映像はよほどのクオリティが無ければ本当につまらないものになる。先生の「今から〇〇を説明しようと思います」の「と思います」の部分でさえ冗長的に感じる様になるし、更に生徒を惹きつけようと、出演側が過激なパフォーマンスや演出に走ってしまう可能性もある。その方向に走ってしまうことは別によいのだが、見ている側がそれに慣れてくると、「もっと」「もっと」と過激なものでしか満足できなくなる。

このように人間の視覚や聴覚はだんだんと肥えてくるので、オンライン授業そのものが諸刃の剣になる危険性をはらんでいる。

そういった本末転倒の世界に向かっていくのではなく、「いやいや、まずその左ページに書いてある解説をちゃんと読みなよ」「まず資料集の写真を自分で探してごらんよ」と生徒自身が手と頭を動かすような、最も手前にある自身の課題を自身でクリアさせるべく個別の刺激を与えていくのが先生の役割だろうと私は思う。渋沢翁の言われる「心を磨く」にもつながる。

上位の生徒は双方向のオンライン授業で成果を出せるかもしれないが、そんな器用な生徒ばかりでもない。クラス全員が双方向で「〇〇君、この問題どう考えますか」なんてやっていたら、空気が間延びしてしまってダラダラと、それこそ「落ちこぼれ」と「吹きこぼれ」を誘発してしまう。

早朝から夕方まで、生徒と先生をシフトで分割して、3密を絶対に回避する形で土日祝関係なく少人数での分散登校による<受講動画コーディネート>と<紙教材のチェック機能>を一刻も早く開始すべきだ。生徒に家に居続けよ、というのは酷である。

【十人十色の人材】
今日は高度な教育を受けた人物の供給が多すぎるが、人材には様々なタイプが必要であり、会社には社長になる人物がいるし、雑用係から運転手になる人まで必要になる。人を使う側は数が少ない一方で、使われる側には無限の需要がある。ところが今日の学生はその少数しか必要とされない、人を使う側になりたいと志している。つまり学問をしてきて高度な理屈も知っているので、人の下で使われるなんて馬鹿らしいと思うようになってしまった。

同時に、教育もむやみに詰め込む知識教育でよしとしているから、似たり寄ったりの人材ばかりになった。しかも精神を磨くことをなおざりにした結果、人に頭を下げることを学ぶ機会がなく、気位ばかり高い。寺子屋時代の教育は極めて簡単で、教科書もレベルの高いもので四書五経がせいぜいだったが、教育の方針がまったく異なっていたため、学生はおのおの得意とする所に向かって進み、十人十色の人材に育っていった。(P.201-202)

人間はそんなに単純でもないことを分かっていて敢えて言うが、今になって「これからはオンライン授業だ」と言っている人・団体は恐らく少し前までは「これからはグローバル化だ」と叫んでいたはずである。ところがこの数カ月で世界は反グローバルの方向に舵を切ってしまった。アクティブ・ラーニングという言葉が流通すれば学校訪問をするたびに「これからはアクティブ・ラーニングだ」と〇〇の一つ覚えが聞こえてきた。

このように、信じるべきは自分であって、扇動されている大衆の声ではない。幅広く自分なりに情報を収集し、自分なりに考えた上で言葉を発するべきだということが今回改めてよく分かった。

さて、この本が出版されたのは大正5年(1916)なのに、語られていることは今の時代と全く同じである。

ただし、これから米中戦争の可能性、新型コロナを契機に思わぬ方向に世の中が動いていく可能性がある。そうした場合に、日本でも食糧危機の問題が意外とそう遠くないうちに訪れるかもしれない。東京をはじめとする大都市から地方への分散が起こり始めるのも今となっては既にリアルな認識の話だろう。

「自給自足」がこれからの日本人のテーマになってくるかもしれないわけで、そうした時に、これまで放棄されていた農地が宝の山に蘇ったり、固定資産税だけを垂れ流していた不毛な空き地が食糧供給源となったりと価値観の大転換がそう遠くないうちに起きる可能性もある。道修町の少彦名神社は「神農(しんのう)さん」と呼ばれているが、種をまいて芽が出て食べ物が生まれる「農」はまさに「神」である。これまで埋もれていた人材、渋沢翁の「十人十色の人材」に本当に光が当たる時代がやってくるかもしれない。

【お天道様とは、どのようなものか】
天とは人格や身体を持っていたり、祈祷(きとう)によって幸不幸を人の運命に加えるようなものではない。天から下される運命は、本人が知りもせず悟りもしない間に自然に行われていく。天とは手品師のように不可思議な奇蹟(きせき)を行うものでも勿論ない。

天から下される運命とは、人間がこれを意識しようがしまいが、四季が自然に巡(めぐ)るように全ての物事に降り注いでいることを、まず人は悟らなければならない。その上で、この運命に対して「恭-礼儀正しくする」「敬-うやまう」「信-信頼する」という態度で臨むべきだ。そうすれば、「人事を尽くして天命を待つ」-自分が出来ることを全てした上で、天から下される運命を待つという言葉の本当の意味が理解されるようになる。(P.208-210)

一昨日、テレビ大阪の「FOOT×BRAIN」がサッカー日本代表元監督の岡田武史氏の特集で、「自立、自律させるために16歳までにサッカーの型をつくる」という話をされていたのだが、

これは教育に置き換えると渋沢翁の言われる 「恭-礼儀正しくする」「敬-うやまう」「信-信頼する」の型づくりに通じる。

学校であれ塾であれ、守破離の「守」という土台をしっかり築くのが教育の仕事であり、生徒にはまず「目の前の仕事を誠心誠意全力でやれよ」と。自転車の補助輪になりながら先生がそこで「チェック機能」を果たせ、ということである。

【順境と逆境】
悪い人間はいくら教えても話を聞かないが、よい人間は教えなくても自分でどうすればよいのか分かっていて、自然に運命を作り出していく。だから厳正な意味からいけば、この世の中には順境も逆境もないということになる。(P.213)

『論語』は骨とう品のような古典ではなく、今現在の私たちの生き方に通じる「活学」である。

【人生の道筋】
世の中には悪運が強くて成功したように見える人がいないでもない。しかし、人を見る時に単に「成功した」とか「失敗した」を基準にするのはそもそも誤っている。

人は、人としてなすべきことを基準として、自分の人生の道筋を決めなければならない。だから、失敗とか成功といったものは問題外だ。仮に悪運に助けられて成功した人がいようが、善人なのに運が悪くて失敗した人がいようが、それを見て失望したり、悲観したりしなくてもいい。成功や失敗というのは結局、心をこめて努力した人の身体に残るカスのようなものだ。

現代人の多くは、ただ成功とか失敗ということだけを眼中に置いて、もっと大切な「天地の道理」を見ていない。彼らは物事の本質をイノチとせず、カスの様な金銭や財宝を魂としている。人は、人としてなすべきことの達成を心掛け、自分の責任を果たして、それに満足していかなければならない。(P.217-218)

とにかく人は誠実にひたすら努力し、自分の運命を開くのがよい。もしそれで失敗したら「自分の智力が及ばなかった」と諦(あきら)めることだ。逆に成功したなら「知恵がうまく活かせた」と思えばよい。成功したにしろ、失敗したにしろ、お天道様から下された運命に任せていればよい。たとえ失敗しても勉強を続けていれば、いつかはまた、幸運に恵まれる時が来る。

人生の道筋は様々で、時には善人が悪人に負けたように見えることがある。しかし、長い目で見れば、善悪の差ははっきりと結果になって表れる。だから、成功や失敗の良し悪しを議論するよりも、まず誠実に努力することだ。そうすれば公平無私なお天道様は必ずその人に幸福を授け、運命を開いていくよう仕向けてくれる。

正しい行為の道筋は、天にある日や月のように、いつも輝いていて陰ることがない。だから、正しい行為の道筋に沿って物事を行う者は必ず栄えるし、それに逆らって物事を行う者は必ず滅ぶ。一時の成功や失敗は、長い人生における泡の様なものだ。ところがこの泡に憧れて、目の前の成功や失敗しか論ぜられない者が多いようでは、国家の成長が思いやられる。その様な浅はかな考えは一掃し、社会を生きるうえで中身のある生活をするのがよい。

成功や失敗といった価値観から抜け出して超然と自立し、正しい行為の道筋に沿って行動し続けるなら、成功や失敗とはレベルの異なる、価値ある生涯を送ることができる。成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要は全くない。(P.219-220)

この話はK・T君(K・Hさん)のお母様が的確に喝破して下さったので、再掲。
「試験である以上合格もあれば不合格もあり、偏差値や点数など様々な結果がついてきますが、点数や結果の背景にははかれないほどの汗と涙と努力と思いがあるのかを体験させていただきました」

“「合格すること」はひとつの目標であるけれども、その手前の、今ここで学んでいること自体が目的であってほしい。やっつけではなく、じっくり宿題を解くこと。これも「誠実」を学ぶひとつの人生勉強になります。字を丁寧に書くこと。これは相手に対する「思いやり」への学びになります。机の上の消しゴムのカスをまとめること、椅子をきちんとしまうこと。これが「道具を大切にする」心を育てます。このように見ていくと、塾で過ごすあらゆる一分一秒が人生そのものの学びであり、あいさつが、礼儀が、と表面的な繕いだけではない奥深い学びがこの通塾で得られるのです。”

これは当塾ホームページの紹介文のどこかに書いたのだが、渋沢翁の思想を射抜いているのではないか、と思っている。

※出典『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一・著、守屋淳・訳 ちくま新書)