経験しながら考える

経験すると、考えざるを得なくなる。都合の良いことよりも、むしろ都合の悪いことを経験した方がより「考える機会」を生むかもしれない。本当は、都合の悪いことの方が「良いこと」なのかもしれない。

世の中の本当に考えている人に比べたら私はまだ考えが足りず、浅い。しかし、今思い出すのは私が子どもの頃同居していた祖母が認知症になってしまって、中学生の時には自宅でその祖母のオムツ替えをしていたということだ。

オムツ替えは赤ちゃんのそれと異なり、排せつ物も大きいのでとにかく臭い。女性の陰部もそこで初めて目にしたわけだが、油断をすればそこから尿が飛び出してくる。

身内のいざこざもあり、人間の醜い部分を見てしまったのが中学生の私で、しかし当時の私は親に反抗期を起こしている余裕もなかったし、むしろ人間って何なんだろうということを糞尿の臭いの中で考えてしまった。(反抗期は発育の健全な証拠だという考え方もあるが、一方で反抗期を起こしている話を聞くと私は、暇だなあ、うらやましいなあ、と正直思ってしまう)

ここまでも極端な例だが、
今回のコロナはまさに「さあ、どうする。どうすんの?」ということを個人個人に突きつけられた面があって、自分で情報収集し、自分で考えて、行動の決着をつける。

みんながこうしているから、テレビでこう言っていたから、ネットにこう書いてあったから、といった付和雷同な考えでは乗り切れないぞ、ということを今まさに教訓としてまざまざと教えてくれているのである。