『論語』の「爲政(いせい)第二」に「子曰く、学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則(すなわ)ち殆(あやう)し」とある。
「習ったことを自分で考えなければ意味が無い。また、自分の頭で考えるだけで外から学ぶことをしなければ、人として危なっかしい」という意味だが、「暗記しただけで、理解しなければ、本当に学習したことにはならない。反対に、理解しただけで、暗記をしなければ意味が無い」とも超訳できる。
例えば、『論語』の仲間に『易経』というものがあって(四書五経)、内訳を見ると64種類がある。
「雷水解(らいすいかい)」だの「火天大有(かてんたいゆう)」だの、この64種類の字列を暗記するのは、かなりしんどい。
しんどいというよりも、まず頭の中に入ってこない。仮にその場で「雷水解」「雷水解」と繰り返し書いたり声に出して読んだりしても、その瞬間は記憶にとどめることが出来ても、1日2日と時間が経つと忘れてしまう。
「雷水・・・なんだっけ」となる。
そこで、やはり原理を理解しないといけない。
水を氷に見立てて、その氷に雷が落ちたらどうなるか。氷は粉々に砕け散るだろう。だから「雷水で分解」、「雷水解」が理解できる。
こんな調子で「山の下に地(土)が広がっていたら、山が剥がれて崩れたことを意味する「山地剥(さんちはく)」となる。「山地剥」は崩壊を表すのだ。
という風に、一つひとつの意味を自分なりに理解しようと努めることで、頭の中に字列が染み込むように吸収されていく。
しかし、理解したからと言って、理解しただけでは必要な時にとっさに思い出すことが出来ない。例の「〇〇君は、授業は理解しているんですけど、テストになると解けないんですよね~」の話と同じで、引き出す力を鍛えておかなければ、一度理解したことであってもそれは何の役にも立たない。
そこで、次の段階は「暗記する練習」をしなければならない。
暗記するためには、やはり「書くこと」と「読むこと」を繰り返すしかない。ただ書けばよいのではなく、意味を考えながら書かなければならない。「山地剥」「山地剥」なんて30回書くだけでは、それはただの作業なので頭はほとんど動いていない。
書くだけでは時間が掛かるので、時には「山地剥は山が崩れて崩壊」「雷水解は氷に雷が落ちて分解(解消)」と口に出して言う。よく生徒で見て覚えようとする生徒がいるが、この場合は見るだけで書くことをしないので、これでは片手落ちで本番になると書けない。私から「横着するな」と連絡ファイルに注意指摘で書かれるパターンだ。
このように、<声に出して読むこと>と<書くこと>と<意味を考えること>をハイブリッドに組み合わせて暗記と理解を強固にしていく。大切なことは<無思考になっていないか?><頭を常時ちゃんと働かせているか>と自分自身の状態を観察することである。
あともう一つ大切なのは、覚えるためには<時間を空けて繰り返す>ことだろう。
例えば暗記の課題を与えたら、生徒が「覚えました」と言ってきた。しかし、実際にテストをしてみると「覚えていないじゃないか」となることはよくある。この場合、生徒自身は手を抜いたつもりは全くなく、むしろ頑張って覚えたつもりでいる。
これは、一回しか練習していないから、その場では覚えたような気になっているけれども、<記憶に定着していないので引き出しが出来ない>ということが真相である。つまり、暗記するということは、このメカニズムを理解しなければならない。
一度覚えたら、間をあけて他のことをする。一定の時間を経て、記憶が引き出せるかどうかをセルフテストする。そこであやふやな部分は再度練習し完璧にする。完璧にしたらまた時間をおいて全く他のことをする。この<他の事をする>のが重要。再び記憶が引き出せるかどうかをテストする。これを繰り返して、何日あいだを空けても、どんな別の仕事を間に挟んでもその記憶が随時呼び戻せるようになったら、そこで初めて「暗記できた」となる。
このように、「暗記」ひとつを見ても奥が深い。
8-9割の塾生が「覚えた」と自負しているものは、実際の「暗記」の爪のカスほどにもならない品質のものだろう。こういったことを自覚した者が人生を一歩、先に進むことになる。