不登校を乗り越えて

教室移転前の2月下旬、塾通信ではおなじみI・R君と一緒にご両親が来塾して下さった。
I・R君も今年はいよいよ大学4年生。就活を控える段階となった。これまでの経緯は過去記事の通りである。

2013年2月21日

2014年8月11日

2015年11月16日

2015年12月28日

今回の来塾に際して、I・R君のお母さまより、不登校のきっかけになった初めの頃をまとめた文章をお預かりした。どういった経緯で不登校になり、その後どういう流れで現在の大学生活に至るのか。本記事でリンクしている過去記事も含めて、同じ悩みで苦しまれている方に届けられれば、と願う。

どのようにまとめたら良いのか…と悩み悩み文章を打ちだしては、手を止めての繰り返しでした。あの、壮絶な4年半の月日を上手く文章にするのは容易ではありませんでした。言い訳になりましたが、ようやく打ち終えました。

我が家の息子の4年半に及ぶ不登校を経験した思いや感じた事を文章にさせて頂きました。今現在不登校で悩んでいるご家庭の方や、不登校の児童さんに携わる方が、経験者である私の話で、何か少しでも参考になれば良いなという想いで書かせて頂きました。

《当たり前の事が当たり前でなくなった日》

我が家の息子の4年半に及ぶ不登校、それは何の前触れも音沙汰も無く突然訪れました。小学5年生に進級して間もない4月のある日、腹痛を訴えているので、迎えに来て下さいと息子の小学校から電話連絡がありました。仕事を早退し、学校まで迎えに行きそのまま病院に連れていきました。腹痛と頭痛を訴えており微熱がありましたが、大した事はなく病院では風邪の診断だったような記憶があります。その日の夜は、悪化する事もなくむしろ元気になったようにさえ感じました。大した事がなくて良かった。そう思って床に就いた私でした。

ところが、翌日の朝また腹痛を訴えたのです。まだ良くなってないんだ、仕方がないお休みをさせようと学校に欠席の連絡をしました。そんな日が2日程経つたような記憶があります。再び登校したのですが、帰って来るとまた不調を訴えるのです。熱を計ると若干ですが熱がありました。夕方、前とは違う病院を受診しました。病院の診断が間違えていたのでは?と病院を変えたのです。その病院では、胃腸炎と診断されました。そうか!風邪ではなく胃腸炎だからなかなか良くならなかったんだと安心しました。

ところが、翌日もまた翌日も不調を訴え学校をお休みしました。しかし、朝不調を訴えてお休みをするのですが、日中になるととても元気なのです。鈍感な私も、いよいよ何かおかしいのでは?と感じるようになりました。もしかして、学校に行きたくないのではないのか…と感じ始めたのです。同じ頃、学校の先生からも何かおかしいのではないかと言われだしました。私はネットや本を読み、何か情報をと探り出しました。そこで目にした情報が、不登校の初期の行動にぴったり当てはまりました。まさか、まさか、まさか我が子が…不登校⁈

頭が真っ白になった私でした。
余談ですが、昔結婚式のスピーチで、人生には3つの坂があるという話をなさる方がおりましたが、まさにその3つの坂のうちの1つのまさかでした。私は、更にネットや不登校の本を読みあさりました。その情報に洗脳されるかのように、敏感になりそれしか見えない、それが全てだと思い込んでしまう自分がいました。本が参考書になり、そうでなくては駄目だと思い込んで他が見えなくなりました。

本に書いてある、初期のうちに対処しなければ大変な事になる等の言葉に物凄く敏感になり、何とか今のうちに行かせなければ!最初の一週間が勝負だと書いてあった。今ならまだ初期症状だ、このままでは本当の不登校になってしまう。私は焦りや不安から冷静さを失いかけはじめました。恐る恐る、もしかして学校に行きたくないの?と息子に聞きました。うん…と息子はうなずきました。最初はきちんとした理由を言わなかったような記憶があります。

私は鬼の形相で息子を叱りつけ、手を引っ張りランドセルを背負わせ、無理矢理玄関から追い出し施錠しました。その後エレベーターを降りた息子の姿を、上から隠れるように確認するのですが…息子は、一歩進んでは立ち止まり、また一歩進んで立ち止まりとなかなか進まず、我が家から学校迄は3分程の距離でしたが、姿が見えなくなるまで15分くらいかかる毎日でした。ところが、いよいよ叱りつけようが、手を引っ張ろうがテコでも動かないようになってしまったのです。泣いて行きたくないと言い出したのです。

「理由は何なの?怒らないから言ってごらん」
私の問いに息子は初めて運動会の練習時に起きた、担任の先生とのトラブルの話を打ち明けたのです。理由がわかった。そうか、それは息子も苦しかった訳だ。担任の先生による誤解によって、息子はいわれのない叱りを受けたと言うのです。息子はその時、泣く事も反論する事もなく、その代わりに心の奥に、担任の先生に強い不信感を抱いてしまったようなのです。息子は同学年の子供に比べると若干大人びたところがあったようで、先生に泣いて抗議する、言葉で抗議する事をせずに、心の中に押し込んでしまったのはないかなぁと思います。

その出来事について息子は他の人が聞いたらそんな事って思われるから、友達には言わないでほしい、でも自分には許せない出来事だったとも言いました。
親として、我が子可愛さに先生に怒りを覚えました。同時に先生にきちんと事情を話さなければと思いました。後日、教頭先生と担任の先生と学年主任の先生と主人と私の5人での面談の場を設けて頂きました。担任の先生は、そのトラブルの出来事を全く覚えていませんでした。その上教頭先生からは「家庭に何か問題がお有りになるのではないですか?」「私が親なら、叱りつけて無理矢理でも学校に行かせますがね」と言われました。

その言葉に主人は激怒しました。私達は親として失格の烙印を押されたような気持ちで学校を後にしました。この学校で良いのか、少なくともこの担任の先生に息子を任せて良いのだろうか…私の中でも先生に対する不信感が募りました。明日から息子を無理に学校に行けと急かすのは止めよう、そう思い始めました。

《自分との葛藤の日々》

もう無理に行かせるの止めようと思ったとは言え、やはり腹に落としきれていない自分がいました。とりあえず、行かなくても良いからランドセルだけ背負っていつもの時間に玄関迄は行きなさい。時間割にそって勉強はしなさい。と課題を設けました。今思うと意味のない行動だったと思います。その後、「ランドセルを背負って玄関」は虚しくなっていつの間にか止めました。時間割にそって勉強は自分で教わってもないのに先に進むのは困難になり、また私が教えるのにも限界を感じ、いつの間にか止めてしまいました。

そんな日々が続いて半年くらい経ったある日に、自分から学校に行きたいと言い出し始めたのです。お友達に迎えに来てもらったりして玄関迄行く、私が連れて行って教室迄行く、とかしながら、少しずつ慣らして普通に登校出来始めたのです。しかし、息子の中には担任の先生に対する不信感は消える事はなく、むしろ日々の学校生活で更に増していったようなのです。何とか、5年生を無事に終える事が出来ましたた。6年生に進級をしたのですが、担任の先生は持ち上がりで同じ先生でした。

5月始め頃、5月に行われる運動会の練習で息子は不登校のきっかけとなった、5年生の運動会の練習時の先生とのトラブルが再び蘇ったのかか、担任の先生が変わらなかった事に落胆したのか、再びお休みをしてしまったのです。

《私が覚悟を決めた日》

欠席した日の放課後、同級生のお友達がお便り等を持って来てくれました。その時、お友達が息子に「○○先生が、○○が来ないから、リレーの練習が出来なくて困るんだよな」って言ってたぞと言ったのです。お友達が帰った後、息子は「もうあの学校には行かない」はっきりとそう言いました。先生に対する不信感が溢れた瞬間だったのでしょう。私も、他の生徒の前でそんな愚痴を言っている先生に更なる不信感が募りました。私の中でも、先生に対する不信感が溢れた瞬間でした。

もういいや無理に行かせるのは止めよう、もう無理だろう、その日私は覚悟を決めて腹に落としました。その日を境に、息子は卒業する迄1度も登校する事はありませんでした。もちろん、その間にも学校からはいろいろなアプローチはありました。でも、どれをとっても息子の事を思ってやってくれている事とは思えませんでした。ある日の出来事で、学年主任の先生からの着信履歴が1日に7回程あったのです。留守電に学年主任の先生からのメッセージが残っていました。
こんなに何回もなんだろう?と思い、学校に連絡をしました。

学年主任の先生は「あの学級費の件でお電話してました。○○円なのですが○日迄お支払いをして頂けますか?」
息子の事を気にかけるような言葉は一言もありませんでした。その頃の息子は学校に対して敏感になっていて、学校が近かったので、授業終了のたびに鳴るチャイム等に敏感になっていましたので、学校からの電話にも非常に敏感になっていました。

その後の経緯は冒頭のリンクの過去記事の通り。

いろんな過程があったし、葛藤もあった。
ただ、ご両親の中で一番印象強く覚えていることは、指導開始からしばらくしてI・R君が「塾に行きたくない」と家を出なかったこと。その時、すかさず私が電車でI・R君を自宅まで迎えに行ったこと。そして、何も責めることも、追及することもなく、淡々と一緒に道を歩いて塾に向かい、いつも通りに時間を終えて彼を見送ったこと。このエピソードらしい。

今でもご両親とはお会いする度にこのエピソードを引き合いにお話しして下さっている。
確かに、この日を境に、I・R君は電車ではなく数キロの道を歩いて帰宅してみようとか、自分なりの「実感」を確かめつつ日々の生活に塾というペースメーカーを入れ始めるようになった。学力面の好転が始まったのもこの頃かと思う。

その後、熱意のある素晴らしい高校に出会い、高校入学後も通塾は続けていたが、5月頃だったか、そろそろ自分で頑張ってみたいということで塾の指導は終了した。私の指導期間は大体一年半くらいだったろうか。

2016年の8月末にはI・R君と私で九州旅行をした。
福岡空港の今はなき第1ターミナルで待ち合わせ、大宰府、大牟田を経由し、ローカル線で熊本へ。ちょうど熊本地震の4か月後で余震も頻繁に続いていたが、何か起きても「その時はその時だ」というお父様の太っ腹な一言でこの旅は決行されることになった。

翌日は車で阿蘇をめぐり、当時崩落した阿蘇大橋の付近を経由したり、通行止めの道をあみだくじのように右往左往しながら、高千穂峡を見学し、山都町へ抜けた。通潤橋でVサインをして写っているのがこの時のR君である。

石垣の崩れ落ちた熊本城を横目に、水位が回復したばかりの水前寺成趣園にも訪れている。名物の馬刺しも辛子蓮根も食べた。有明海の干潮も見て3日目の午後に新幹線に乗るI・R君を熊本駅で見送った。

と、思えば今回の再会はこの駅で見送った日以来だったことに気づいた。「あの時は楽しかったよね」と思い出話に花を咲かせつつ、I・R君の足跡が良いこともそうでないことも含めて全部、I・R君の糧になってほしいと願った再会の日であった。

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