真田山陸軍墓地

ちょっと時間が出来ると、大阪市内をどことなくひたすら歩いている。
この日は地下鉄谷町線で大阪市南部の瓜破霊園から喜連地区、平野郷と北上してJR平野駅まで。まず瓜破霊園。市営霊園ということで、怖いもの見たさの興味本位もあったのかもしれない。しかし私が生まれ育った東京都江東区の平野というところも寺町で、至る所にお寺や墓地が点在していた。友達の家の窓から外を覗くと必ず墓石が見える、という具合である。雰囲気は東京の平野の墓地の方がよほど肝試し向きだったような気がする。そんな先入観を持って足を進めてみると、意外や意外、瓜破霊園はあまりに整然ときれいな公園墓地になっていて驚いた。敷地内には弥生時代の瓜破遺跡花塚山古墳も遺されている。

墓石も灰色と桜色のいずれかの御影石にほぼ統一され、近づいてみると、陸軍〇〇〇…など戦時中に亡くなられた方を弔う墓も多く、どこに行っても何かと歴史の爪痕を見出すことが出来るのは、関東との歴史の重ね方の違いなのだろうと思う。中央には斎場と合同墓があり、私もその時にはここに入りたい、と率直に思ってしまった。

瓜破霊園を出て、喜連(きれ)地区を進む。長居公園通沿いには市営住宅が並ぶが、そこを少し奥に入ると築100年以上は経過しているだろうと思われる古民家が随所に目に飛び込んでくる。「はー」「ほー」と感嘆しながら歩き続けるので、全く飽きることがない。ふとした横丁にお地蔵さんの祠があり、その目にするワンシーン一つひとつが絵になっているのだ。道を間違えて遠回りしても楽しい街歩きというのは、私自身かつて京都で歩いた時以上の感激かもしれない。まあ、その瓜破(うりわり)という地名にしても1300年前から続いている地名であり、大阪は至る所にそういう重厚な歴史を抱えているディープな都市である。

更に北上し、江戸時代と明治時代にタイムスリップしたような平野本町通商店街を抜けて、平野郷へ。戦国時代において平野郷は大阪の難波(なにわ)京と奈良の平城京を結ぶ街道の要衝として発展し、戦国時代には武士の介入を受けないために周囲に環濠という濠や土塁を巡らせて、堺・尼崎などの中世の自治都市のひとつとして平野郷は数えられている。そんな環濠の一部が平安時代の862年に創建された平野郷の氏神である杭全(くまた)神社の東側にそのまま残されている。「へー」「おー」と感激しっぱなしのまま、平野駅へ。

JR平野駅から各駅停車10駅で法隆寺にも行ける。法隆寺といえば私は中学生の頃に修学旅行で訪れた地だが、大阪では半歩足をのばせばそういう世界遺産にも行けてしまう。

大和路線で天王寺を経由し、大阪環状線に乗って玉造で降りる。最終目的地はあくまで谷町四丁目の当塾だ。
玉造(たまつくり)という地名も、古代に装飾具である勾玉を作っていたことが由来と。勾玉はこの度の皇位継承でも用いられた三種の神器のひとつである。一つひとつの地名にしてもどこまで古いのか、と凄すぎて笑ってしまう。「ご乗車有難うございます、次は喜連瓜破です」の瓜破でさえ大化年間の飛鳥時代…。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%BE%E7%8E%89

玉造日之出通商店街を通って、真田山へ。高津高校とか明星高校とか、上町台地に乗っている偏差値の高い学校が集まっているエリアなのだけれども、天王寺スポーツセンターがあって、その向かいに真田山小学校。坂の街・大阪(※江戸時代までは表記「大坂」。ただし語源は坂が多いから大坂という地名になった訳ではないことに注意)の上町台地の長く続く坂の脇道を抜けると、三光神社。真田幸村が築いた真田丸のまさにその場所であるが、階段がきつそうだな、と思って「また次回に…」と通過しようと角を曲がったら、階段の少ない鳥居が見えたので、「大変失礼しました…」と謝りながら境内に入って参拝。で、真田山といえばそういえば陸軍墓地の、国立墓地としての整備要望のニュースを聞いたことがあるな、と思い、先へ続く階段を上ってみたら、眼下に整然と細長い墓標が並ぶ墓地が広がった。真田山陸軍墓地である。

昨年9月の台風による被害で荒廃が一層進んだと言われていたが、維持会の方々の奉仕のご尽力により、草は伸びていたものの、とても丁寧に管理されている印象を私は受けた。維持会のホームページによると「西南戦争、日清・日露・第一次世界大戦から第二次世界大戦にいたるまでの5,100基以上の墓碑が並び」「将校・兵士だけでなく軍事物資の輸送・その他下働きとして雇われた軍役夫や日清戦争や第一次世界大戦で捕虜となった清国兵・ドイツ兵の病死者の墓碑など、当墓地独自の被葬者もみられます」とある。敵味方に関わらず、今日私たちが少なくとも平和に、食べるもの寝る所に不自由することなく暮らせているのは、時代に命を捧げてきた英霊のおかげでなくして何ものでもないと、頭を下げながら墓地を歩かせてもらった。この日は令和元年の初日

鹿児島の西郷南州墓地で聞こえた気がしたような勇ましい雄叫びではなく、今はひっそりと静かにお休みになっているのが真田山墓地という印象を受けた。

通用門を後にして、長堀通に出ようと坂を下る途中、「腹ごしらえしていけ」という声が聞こえたような気がした(そう、勝手に聞こえた気がしているだけである)。手持ち無沙汰になるから普段あまり外食は好まないのだが、ちょうど目の前に「ギョウザ工房」という看板が見えた。店内のテレビで令和初日の各地のフィーバーを見て、再び谷四の塾まで歩を進めることにした。

※掲載写真はWikipedia「真田山陸軍墓地」より