桜島の噴煙と共に

時は慶応4年(1868)。旧幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛の直談判により、江戸城の明け渡し、世に言う「江戸城無血開城」が行われた。そのために江戸の都市は戦火で焦土と化すこともなく、文明開化による近代化を早急になし遂げることが出来た。

その日、江戸城無血開城も無事に終わり、天皇の使者が帰るときのこと。西郷の姿が見当たらない。皆が心配して城内を探し回ると、大広間の真ん中でゴウゴウといびきをかきながら眠っていた西郷を見つけた。揺さぶって起こすと、西郷は頭をかきながら『これはこれは…田舎者のとんだ失敗でごわす』。敵と味方が入り混じった緊張の残る城内で眠ってしまうとは何と豪胆な。思わず周囲の者が笑ってしまったという。

そんなエピソードも展示してあるのが「西郷南州顕彰館」。鹿児島市中心部の繁華街から徒歩で北に進んだ、住宅の立ち並ぶ城山の一角にある。城山は西南戦争で西郷らが自決した地でもある。

顕彰館に隣接して「南州墓地」があり、西郷隆盛をはじめとして西南戦争で敗れた薩軍2023名が葬られている。墓地中央に西郷、そして篠原国幹、村田新八、別府晋介といった幹部の墓石が続けて並ぶ。

流れ弾を受けて倒れ込み、「晋どん、晋どん、もうここいらでよか」と西郷が介錯を頼んだのが別府晋介で、別府は「ごめんやったもんせ!!」と泣きながら太刀をふるって西郷の首をはねた。

篠原国幹(くにもと)は西郷の9歳下で生まれは西郷と同じく下加治屋町。現在は市電の電停にもなっている鹿児島中心部の繁華街である。西郷が陸軍大将を務めていた際の陸軍少将が篠原で、明治6年(1873)に明治天皇が近衛兵の演習をご覧になった際に、それを指揮した篠原の活躍が立派であったので明治天皇の命(めい)により「篠原に習え」ということで「習志野(ならしの)」という地名が命名された。今の千葉県習志野市、船橋市習志野台のルーツはここにある。

その篠原も征韓論の対立により西郷や板垣退助と共に新政府を下野し、西南戦争により熊本県の北部、玉名という土地で亡くなっている。

西郷は49歳、篠原は40歳で没しているが、南州墓地には享年18歳、19歳と刻み込まれた石塔も数多く並び、まるでエイエイオーと士気を高めた雄叫(おたけ)びがそこら中から沸き上がってくるようである。

「みんなに会っていってやってくれ」と西郷(せご)どんに声を掛けられたような気になって、墓地中をくまなく回って歩く。何故か涙が止まらない。

墓地の斜面の向こう側には桜島の切り立った尾根がくっきりと視界に入る。
人は死して死なず。彼らはみな、今も生きている。桜島の噴煙と共に、この国の行方を見つめている。