明治生まれの人間から学ぶこと

島根県の西部、鳥取県との県境近くに「どじょうすくい」の民謡『安来節』で知られる安来市(やすぎし)がある。アメリカの雑誌で2003年以降「日本の庭園ランキング20年連続第1位」に認定されている「足立美術館」が位置するのも安来市だ。

昨年12月、大寒波が来る直前に訪れた時の写真がこちら。

足立美術館を創設したのが実業家の足立全康(あだち・ぜんこう)。プロフィールを見てみよう。

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1899年2月、島根県安来市古川町(現足立美術館所在地)に生まれる。尋常小学校卒業後、家業の農業を手伝う。15歳で木炭商を手がけたのをはじめ、主に大阪を本拠地として不動産や繊維関係など、様々な事業を興した。かたわら、近代日本画などを収集して、昭和45年に財団法人足立美術館を設立。平成2年12月19日没。享年92歳。
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全康さんが90歳の時に口述筆記でまとめた自伝が『庭園日本一・足立美術館をつくった男』(足立全康・著、日本経済新聞出版社)である。

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私は現在、五つの会社・法人の役員をしている。『(財)足立美術館』の名誉会長、『丸全(株)』の代表取締役会長、『(株)日美』の代表取締役会長、『東宝産業(株)』の相談役、『新大阪土地(株)』の相談役がそれである。

小学校を出てから今日に至るまで、手がけた職はざっと三十にのぼるので、約二割が成功した計算になる。はたして、この二割という数字がどれほどの価値を持っているか、自分にはよく分からない。(P.45)

考えてみれば、私はこれまでどちらかというと、自分よりも目上の人と付き合うようにしてきた。何をやるにしても、力のある人と付き合えば、その人の持っている運勢なり、ものの見方や考え方、交遊関係を自分のものにすることができる。そう考えて意識的に人を選んできた節がある。(P.229)

私の知り合いに結構、社会的な信用を得ている要人や、やり手が多いのも、そうした理由とあながち無縁ではない。若いうちとか、まだまだ力が足りない時には、実力者の恩恵にあずかろうとするのは決して悪いことではないと思う。それは一種の生活の知恵、処世術でもあり、若者の特権の一つでもあろう。

さりとて、そういう人たちに対して卑屈になる必要はない。若者であるが故の、物おじしない態度を忘れるべきではない。(P.230)

類は友を呼ぶ、という諺(ことわざ)があるが、社会に大きく羽ばたこうと思ったら、自分と同レベルの人間とばかり付き合っていては駄目だ発想にしても行動にしても、一定の枠を越えられない。相手の力を取り込んでこそ限りないパワーが生まれる。エネルギーも増殖される。

人間誰しも、聖人君子ではありえない。が、また逆にどんな人でも長所、見どころはあるもので、だからこそ身近な人からも”ええとこ取り”する才も必要だ。少年時代は全くうだつが上がらなかった人間が、何十年ぶりかで会うと、まるで別人のように光り輝いているケースは別に珍しいことではない。きっとその人物には、常人には気付かぬ才能があったに相違ない。吸収上手の人間はそれだけ出世も早い

もっともそのためには、先ず自分に人間としての魅力を備えることが肝要だ。身分相応という言葉は、身の程をわきまえろということでもある。自分の長所、短所がみえぬようでは心許無い。こちらがいくら思いを寄せたからと言って、誰でもすぐに目上の人たちの信認を得られるというものではない。

それではどんなことに気を付ければよいか。それは、夢をもつこと、志を高く持つことだ。そうすれば必然的に、付き合いの輪も広がり、必要とするものが何であるかも分かってくる顔に生気がみなぎっている人間には、人を引きつけるなにがしかの魅力がある

猪突猛進(ちょとつもうしん)も時と場合によっては、限りないバイタリティーともなり、飛んで火に入る何とかにもなる。無謀と勇気とは紙一重であり、その判断如何で成功者にもなり、敗軍の将ともなる。人の心を読むことと並んで、時勢の流れを判断する能力も大切だ

私が、目上の人と会うときに心がけたものの一つに、時間を厳守することがある。誰と会う場合でも、こちらから訪ねるときは必ず十分前には到着した。いくら金がなくても、その気になれば必ず守れるのが時間だ。こちらの都合だけで、決して相手の時間を無駄に費やさせてはならない。

地元の人たちの間では、「足立時間」と言ったら、約束の時間の十分前にはちゃんと着くことを意味するそうだ。十分早く着いてさえいれば、相手の人の事情と都合によっては、それだけ長く面談できる可能性もある。礼儀を欠く遅れもない。

時間にルーズな人間を、私はあまり信用しない。誠実さが感じられないと思うからである。私の経験からいって、デートの時に遅れて来るような女性は見込み薄である。だから社員はもとより、身内の者にも時間だけは厳守するように、口を酸っぱくして言っている。時間通りに来た社員には賞与をやるが、遅れた人間にはやらないというくらいに徹底した。タイム・イズ・マネーを身をもって知らせた。

また、私は人と会う際、必ず備忘録なるものを携帯した。聞きたいこと、知りたいこと、相談したいことを予め項目別に書き記しておくのである。それとともに、そこでどんなことを話し、そのために何をなすべきかを素早くメモに書き留めた。というのも、決められた時間内に話を要領よく切り上げることが礼儀であり、ひいては第一印象を良くすることになると考えたからである。分刻みのスケジュールで動いているような人に対しては、ケジメをつけることが付き合いの第一歩だと思う。(P.233-234)

昭和二十年代の後半に、私はわずか二年ほどだったが、美章園の高級邸宅に暮らした。その家は敷地が三百坪ほどで、ぐるりを塀に囲まれ、部屋数は十近くあった。風呂もトイレもちゃんと二つあり、それぞれに主従のけじめをつけた立派な造りだった。それだけに従業員の不祥事で、いざそこを明け渡さねばならなかったときの寂しさと屈辱感はなかった。惨(みじ)めさだけが残り、何ともいえぬ絶望感に打ちひしがれた。後にも先にも、住居のことでこれほど寂しい思いをしたことはない。

―こんな気持ちになるんなら、家屋敷に贅(ぜい)を尽くすことはもう二度とすまい。

人間の栄枯盛衰だけは、誰も予測ができない。驕れる者久しからず、である。同じ金を使うなら、個人の欲望と社会の要求が重なり合ったものに使ったほうが、遥かに精神的に充実している。この時の体験が薬となって、そう考えるようになった。

美術館を建て、世界的な日本庭園を造ろうと思い立ったのも、元はといえば、この明暗のドラマが背景になっているようである。性格的に、痛い目に遭わないと気付かないのが自分である。

思えば、私の人生は成功と失敗の繰り返しである。心休まる平穏な時期はほとんどなかった。あるとすれば、恐らくこの四、五年であろう。それまでは数年周期で、哀歓(あいかん)の波に翻弄(ほんろう)されていた。地震のグラフでいうと、針が狂わんばかりの烈震である。マグニチュード7以上は間違いないだろう。

しかし今日の私があるのは、そうした度重なる挫折のお蔭と言っても過言ではない。倒れた回数分だけ、足腰が強くなったような気がする。また、打たれ強くなったようにも思う。

その昔、「願はくば われに七難八苦を 与え給へ」と祈ったという山中鹿助(しかのすけ)の真意が、今更ながらよくわかった。
(※山中鹿助=戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将)

今の若い人たちは多くはきっと、しなくてすむ苦労はしない方がよい、と考えるのだろうが、精神的にタフにしておかないと、現代のような世の中では簡単に置いてきぼりを食うのではないだろうか。世の中を甘くみてはいけない。働くことに充足感が持てないと、何をやっても楽しくないに違いない。(P.246-248)
—(抜粋ここまで)

途中、美章園という地名が出てきたが、足立全康さんは船場や新幹線の開通する前の新大阪など、現在の大阪市内を拠点に事業をされていた。その全康さんは1899年生まれとあるが、和暦に直すと明治32年になり、私の祖父が明治41年生まれだったので、祖父よりも約10歳先輩になる。

私の祖父は徳島県の鳴門出身で、東京の木場で材木商を営んでいた話はこの塾通信でも度々書いているが、年代が近いせいか、全康さんの語りと祖父が生前話していた内容に共通するものは多い。

明治生まれの人がどのように社会基盤を作り上げていったのか、その世代の人たちの代表的な思想を全康さんは遺してくれている。

<私はこれまでどちらかというと、自分よりも目上の人と付き合うようにしてきた>

<自分と同レベルの人間とばかり付き合っていては駄目だ。発想にしても行動にしても、一定の枠を越えられない>

このあたりは祖父が生前話していたことと全く同じである。

<吸収上手の人間はそれだけ出世も早い>

<自分の長所、短所がみえぬようでは心許無い>

<顔に生気がみなぎっている人間には、人を引きつける魅力がある>

<人の心を読むことと並んで、時勢の流れを判断する能力も大切だ>

<時間を厳守する>

<必ず備忘録(=メモ帳)なるものを携帯した>

<倒れた回数分だけ、足腰が強くなった>

<精神的にタフにしておかないと、現代のような世の中では簡単に置いてきぼりを食う>

<働くことに充足感が持てないと、何をやっても楽しくない>

一つひとつ解説するまでもないが、どの言葉も現代に通用する真理ばかりである。


出典『庭園日本一 足立美術館をつくった男』
(足立全康・著、日本経済新聞出版社)

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