ことばに変わる瞬間

先週の塾通信を書きながら話題が逸れてしまったが、陰山先生のツイートに関して言いたかったことを思い出した。

銭稼ぎに繋がるかどうかは別として、大人になって人生がそれなりに充実している人は、幼少期から一貫して好きなことの気脈が流れている。「これをしている時間はイキイキしている」「これをすると元気になる」、そういうことは本来誰にでもあって、特に子供の時は理屈で分からなくても何となく好きなことを手掛けていたりする。

年齢を重ねて知能の比重が大きくなると、「自分は何が好きなのかを考えなければならない」「何が得意なのかを分析しなければならない」と、理屈っぽい思考パターンに陥ってしまうのだが、そうなってからでは時すでに遅し。大人になって、頭で考えて心にフィットすることを見出そうと思っても、まず出てこない。

となると、子供の時に持っている要素、楽しんでいる事柄、理屈はよく分からないけれど何かウキウキしている、そういったことを定義してくれる言葉に出会えるかどうか。これが人生の分かれ道になったりする。

人間は歳を重ねると「世間的に」「人からこう思われるから」「怒られるから」「評価が下がるから」とオリジナリティを封印して、世の中の大多数の動きに合わせることが正しい生き方なのだと誤解し始める。それこそ忖度(そんたく)であり、人生の劣化がここから始まる。

この<イキイキした状態>から<劣化の状態>に至らない間に、「こういうジャンルがあるよ」と言葉で定義してくれる隣人がいるかどうかで人生は大きく変わる。

私の場合も、言葉には表現出来ないけれども何となく楽しみとしていたことを、中学・高校の段階で「都市計画」「緑地環境」「建築」というキーワードに置き換えてくれた人がいて、そのおかげで幼少期からの漠然とした核心が社会人以降の人生に直結した。今の私は建築業界には携わっていないが、していることは建築的素養(Architecture / Integration)抜きには考えられない。

では私が自分一人で幼少期から続く一本道を見出すことが出来たかといえば、それは無理だっただろう。「モヤモヤが言葉に変わる瞬間」を与えてくれる人の存在がなければ、今の私はここに居ないはずだ。