自主性は放置された中では出てこない

陰山先生の話題ついでに先日のツイート。

(引用ここから)

「家庭でしっかりやってほしいことは、子どもの未来を構想すること。
子どもの自主性に任せるというのは間違いないけど、それは放置された中では出てこない。
共に探して作り上げてほしい。
学校側から見ていると、子どもは伸びようとしてるのに放置され、枯れてしまうこともある」
https://twitter.com/kageyama_hideo/status/1338607888537829377?s=27

(引用ここまで)

私の親世代は、戦後まもなくの生まれで高度経済成長期を駆け抜けてバブル期に至るまで、家庭(情)を顧みるよりもどちらかと言えば経済の隆盛(知)に注力してきたように思う。

親世代がそうであるから、その子である私の世代は小中学校時代に荒れを起こすことも少なくなく、私の通っていた江東区の明治小学校では学級崩壊も頻発していた。担任の先生がダウンし、副担任の先生が言うことを聞かない生徒の教室で怒って床に椅子を叩きつけていたのを覚えている。

そういう子世代が今親になって、核家族化も含めて祖父母・親世代からの伝承が途絶え、子育てを「どうしたらよいか分からない」という漠然とした不安に襲われている人たちが多いように思う。その不安を習い事のアウトソーシングであったり、また偏差値至上主義的な物質的価値観に身を置くことで無意識のうちに自身の信念を誤魔化してしまっているのも強いて言えばその一つだろう。第二次世界大戦の傷あとそのものである。

そういった状況のしわ寄せを喰わされているのが今の子供世代ともいえる。どうしたらよいか分からないことを前提として、妙な所でガッツリ管理をして、妙な所で放任をするようなケースも見られ、「大事な所をケアし、そうでないところは泳がせてあげる度量を持つ」といった優先順位も、私を含めて現代の主流層にいる大人たちは見えなくなっているように思う。

そこで、先ほどのツイートに戻ろう。