論語と算盤~その2

今週も『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一・著、守屋淳・訳 ちくま新書)から。

【人格の養成法】
現代の青年が、最も切実に必要としているのは人格を磨くことだ。明治維新までは社会における道徳教育が盛んだったが、西洋の文化を輸入するにつれ、道徳が混沌とする状況になってしまった。これはとても憂うべき傾向である。

人は往々にして利己主義(自分だけがよければいいという考え)に走り、利益の為にはどんなことにも耐え忍ぶといった傾向を持ち始めている。昨今では国を豊かにしようとするよりも自分を豊かにする方に重きを置こうとするくらいだ。もちろん、自分が豊かになることが大切なのは言うまでもない。しかし自分さえ豊かになれば満足だとして、国家や社会を眼中におかないというのは、嘆くべきことだ。

何にせよ人々の気持ちが利益重視の方向に流れるようになったのは、世間一般から人格を磨くことが失われてしまったからではないだろうか。

さて、人格を磨く方法は色々とある。この点私は青年時代から儒教に志してきた。その始祖にあたる孔子や孟子といった思想家は私にとって生涯の師である。彼らの唱えた「忠」=良心的であること、「信」=信頼されること、「孝弟」=親や年長者を敬うことを重視するのは、とても権威のある人格の養成法だと信じている。忠信孝弟は「仁」=物事を健やかに育む、最高の道徳を身につけるために欠かせない条件だ。

この忠信孝弟を自分を磨く上の基本に据え、更に進んで知恵や能力を発展させる工夫をしなければならない。成功は人生の最後には勝ち取りたいものであるが、なかには「目的を達するためには手段を選ばない」と成功の意義を誤解する人もおり、どんな手段を使っても豊かになって地位を得られれば、それが成功だと信じている者すらいるが、私はこのような考え方を認めることができない。

素晴らしい人格をもとに正義を行い、正しい人生の道を歩み、その結果手にした豊かさや地位でなければ、完全な成功とはいえない。(P.142-146)

【思いやりの道】
社会問題とか労働問題は、単に法律の力ばかりで解決されるものではない。例えば家庭内においても父子兄弟親戚に至るまで、皆自分の権利や義務を主張し、何から何まで法律の裁きを仰ごうとすれば、どうなるだろう。皆の気持ちは険悪となり、人と人の間に壁が築かれて事あるごとに争いが起こり、一家が仲良くひとつにまとまることなど望めなくなってしまう。

資本家と労働者の関係もこれに等しい面がある。彼らの間には元々家族的な関係が成立していた。ところが今、法を制定して、それによって取り締まろうとしている。これは一応もっともな思いつきかもしれないが、これを実施した結果が、果たして当局の理想通りに行くものであろうか。

資本家と労働者との間には、長年に渡り結ばれてきた一種の情愛の雰囲気があった。ところが法を設けて、両者の権利や義務を明らかに主張出来る様にしてしまえば、両者の関係にスキマを作ってしまう。ここは一番、深く研究しなければならない。私の希望を述べるなら、法の制定は勿論よいが、法があるからといって、むやみにその裁きを仰がないようにして欲しいと思っている。

富める者も貧しい者と共に「思いやりの道」を選び、「思いやりの道」こそ人の行いをはかる定規であると考えて社会を渡っていくなら、百の法律があろうと千の規則があろうと、そちらの方が優れていると思うのだ。

資本家は「思いやりの道」によって労働者と向き合い、労働者もまた「思いやりの道」によって資本家と向き合う。お互いに相手を思いやる気持ちを持ち続ける心がけがあってこそ、初めて本当の調和が実現できる。権利や義務といった考え方は、無意味に両者の感情にミゾをつくるばかりで、ほとんど何も効果を発揮しない。

今の社会には、貧富の格差を無闇やたらとなくそうと願う者がいる。しかし貧富の格差は、いつの世、いかなる時代にも全く存在しない訳にはいかない。もちろん、国民全部がみな富める者になれるのが望ましいが、人には賢さや能力の点でどうしても差がある。誰も彼もが一律に豊かになるのは無理な願いだ。だから、富を分配して差をなくしてしまうなどというのは、思いもよらない空想にすぎない。

要するに「金持ちがいるから、貧しい人々が生まれる」といった考え方で、世の中の人が社会から金持ちを追い出そうとしたら、どうやって国に豊かさや力強さをもたらせばよいのか。個人の豊かさとは国家の豊かさだ。個人が豊かになりたいと思わないで、どうして国が豊かになっていくだろう。国家を豊かにし、自分も地位や名誉を手に入れたいと思うから、人々は日夜努力する。その結果として貧富の格差が生まれるのなら、それは自然の成り行きであって、人間社会の逃れられない宿命と考え、あきらめるより外にない。

とはいえ、貧しい人と金持ちの関係を円満にして両者の調和を図る努力をすることは、もののわかった人間に課せられた絶えざる義務である。それなのに「自然の成り行きだし、人間社会の宿命だから」と、流されるがままに放置すれば、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう。だから、是非とも「思いやりの道」を盛り上げていくよう切望する。(P.151-156)

私の別業務で会社組織の管理側にいる立場としては、昨今の働き方改革にしても「会社が悪」という考えが一人歩きしてしまって、従業員が犠牲者、会社が全て悪いという価値観が社会の中で当たり前のものになりつつあることに大変危惧を感じている。

中には従業員を使い殺してしまえ、的な会社もあるのかもしれないが、会社側としては「良かれ」と思って最大限の誠意を従業員に傾けている部分も少なくなかったりする。むしろ悪意をもって従業員に向かうどころか、常に善意をもって従業員に向かい合う。しかし従業員にはその真意が通じず、時には訴訟沙汰になったり、労働基準監督署に駆け込まれる、経営者は心が病む、という負のスパイラルが存在するのも確かだ。

渋沢栄一が今から100年前に「思いやりの道」として資本家と労働者のあるべき関係を説いているのは、まさに2020年の今こそ必要な考え方なのではないだろうか。

そして、教育において「思いやりの道」を当てはめてみると、
先生は生徒に対して「思いやりの道」を持たなければならないのに対して、生徒・家庭も先生に対して「思いやりの道」を持たなければならない。先生というのは学校・塾と置き換えても良いだろう。

つまり、先生が生徒に対して「思いやりの道」を持つのは当然として、昨今の風潮としては「対価を支払っているのだから、サービスとして授業・学習環境・教育サービスを提供せよ」的な価値観が生徒・家庭の側に芽生えつつある。

これは先日の永田和宏先生が『知の体力』で指摘されていることと同じである。

生徒は生徒で、家庭は家庭で常に謙虚に「学ぶ姿勢」「自らつかみ取る姿勢」「導きを仰ぐ姿勢」を持たなければならない。渋沢栄一が説いているのと同様に、与える側も与えられる側も優劣なく、平等に同じ目線に立って「思いやりの道」で共に進まなければならない。

3月にリクルート代理店の営業部長と心斎橋で食事しながら話していたのだが、
部長曰く、「自分の立場で言うのもナンですが本来、クライアント(発注側)も業者(受注側)も立場として平等であるべきなんですよ」と。この均衡が崩れて、クライアントが「お前は業者なんだから言うこと聞け」ということになったら、その事業はそこで成長がなくなるんですよ、と。これはまさに「思いやりの道」の崩壊である。

消費社会が発達して、何でも金を出せばモノが買える、サービスが受けられるとなれば、そこに介在すべき「心」も同時に、さらに成熟していかなければならない。この均衡が崩れるのが「末法の時代」ということであって、休業、休業とこの消費社会の息の根を止めようとするCOVID-19がこの後社会に何をもたらすのか、ということを注視しなければならない。