個を追求する

言志四録の一巻目「言志録」第234項にこういうことが書いてある。


【234】孔門の学は躬行にあり

孔門の学はもっぱら躬行(きゅうこう)に在り。門人の問目、皆己れの当(まさ)になすべき所を挙げて之を質(ただ)せり。後人(こうじん)の経を執りて叩問(こうもん)するが如きに非ず。故に夫子(ふうし)の之に答うることも、また人人(ひとびと)異なり。大抵、皆偏(みなへん)を矯(た)め、弊(へい)を救い、長(ちょう)を裁(た)ち、短(たん)を補い、以て諸(これ)を正(せい)に帰せしむるのみ。譬(たと)えばなお良医の症(やまい)に対して剤を処するがごとし。症は人人異なり。故に剤もまた人人異なり。懿子(いし)、武伯(ぶはく)、子游(しゆう)、子夏(しか)問う所は同じゅうして、答は各(おのおの)同じからず。また以て当時の学を想うべし。

(訳)孔子の学は実践にあった。門人の質問の題目は皆それぞれに為さねばならないところを挙げたものである。後世の人々が経典(けいてん)の文句を取り挙げて質問するのとは違っている。だから、孔子がこれに答えたことも、人それぞれに違っている。要点は大抵、片寄っているところを矯正し、弊害とするところを救い、伸び過ぎたるところを裁(た)ち、短いところを補って、正道に落ちつかせるにあった。このやり方は、例えば上手な医者が病気の性質によって薬を調合するようなものである。病気は一人一人異なる。だから、薬も各人が別々である。懿子(いし)その他三人が、皆孝行について質問したのに、孔子の答は皆別々であった。これをみても、当時の学問が、いかに実践を重視し、個性を尊重したかを考えるべきである。

※『言志四録(一)言志録』 川上正光全訳注、講談社学術文庫より

「人を見て法を説く」孔子の指導法が見てとれる。教育の原点は個別指導だということ、人それぞれに合った導き方が必要だということ。同じ行為を生徒A、生徒Bがそれぞれ行ったとしても、生徒Aにはきつく叱るかもしれないし、生徒Bには褒めるようなことがあるかもしれない。

現在の公教育が疲弊しているな、と思うのは「みんながしているから」ということで、全員一律で個々の生徒の実態に合っていないワーク課題が出題されていたり、事情があって通常授業が受けられないのに、その生徒が解けるはずのない試験を出題して低い点数や評定をつけることに学校側が鈍感であったり(それによって生徒が否定的な想念を抱くことに罪悪を感じない)、個々の対応まで手が回らないという実務上の問題もあるだろうが、そんな教育は百害あって一利なしとしか言いようがない。

どれだけ「個」を追求出来るか。個を追求するということは、生徒の人間性、人格というものに深く潜り込んでいって、そこを原点として、はじめて指導のあり方が見えてくるのであるから、指導の形態も、形があってそこに生徒をはめ込むのではなく、生徒の導き方として結果最良の方策が個別指導や集団型の講義でした、ということになる。この順序を間違えてはいけない。