論理とはなにか

先週、出口汪先生の講演について書いたが、出口先生は文章を読むことに対して、「自分がどう読むか」ではなく「誰が何を言っているのか」を徹底的に理解することが「論理的な文章の読み方」だと話しておられた。

で、この「論理」という言葉。難しい用語ではあるのだが、私の解釈でいうと、物事には「結果」があって、その手前に「原因」がある。この原因から結果までの筋道を明確にすることが「論理」だと私は理解している。

例えば、今日はお腹が痛い。「何でだろう、分からないねえ」・・・これは論理的ではない。「昨日は津田沼のかいざんっていう有名店でねぎラーメンを大盛で食べちゃって、その後、マックでLサイズのシェイクを一気に飲んでしまって、家に帰ってガリガリ君2本食べちゃったから、お腹の中が混乱してしまってお腹が痛いのかもなあ。」・・・これはお腹が痛くなる原因を、ある程度道筋として描いているから、論理的である。

先週の塾通信の

(   )に入る単語を答えなさい。
「”Is this car (   )?” ”Yes , it’s ours.”」

の話。これも、”Yes , it’s ours.”の意味を理解して、「それは私たちのもの」と答えているから、これに対する質問文は「この車はあなたたちのものですか?」が推定され、カッコの中にはyoursが入る。このように「なんでなの?」「だからこうなんだよ」という話のつじつまが合っているから論理的な考えが出来ていることになる。

この論理的な考え方が苦手な人の場合、答えは天からポンと降りてくると無意識のうちに信じ込んでいるため、これを私は以前から青森の恐山になぞらえて「イタコ型」と呼んでいるが、このタイプの者は何の脈絡もなく思いついたことを言う・書くことが答えることだと思ってしまっている。

で、これは実は私自身小学生の時にそうだった記憶がある。「速さ」の問題で、とりあえず「み・は・じ(道のり・速さ・時間)」の公式は覚えたから使っているけれど、よく意味を理解しないで(理解する気もさらさら無く)当てずっぽうのようにテストに向かっていたのを思い出す。

恐らく、速さについての概念が理解出来たのは、高校物理で[m/s]×[s]=[m]のように数値だけでなく「単位は計算で求めるもの」という概念を知ってからだと思う。私にとってはそこで初めて、単位という裏付けによって公式が成り立つことを理解し、計算式を立てる意味を納得することができたと言えるだろう。つまり、論理的な考え方にようやくたどり着いたということである。

物事には必ず原因がある。オカルトチックな宗教用語ではこれを業(ごう)またはカルマと呼ぶが、徳のある行動を積んでいる人が徳を受けやすい、また人を裏切る人は人から裏切られやすい、といった現象も、カルマと言ってしまえば怪しいが、原因に対する結果(因果)という面でみれば極めて論理的な現象といえる。「善因善果」「悪因悪果」という仏教用語もまさに論理的である。

模試の成績表を見て「伸びましたね~」「下がりましたね~」しか反応の出来ない塾指導者を見たことがあるが、これは非論理的で、その辺のチンパンジーの方がまだ優秀かもしれない。なぜ伸びたのか、なぜ下がったのか、ということには必ず原因があるものだ。表面的な結果で一喜一憂をするのは愚の骨頂で、そのデータの奥にある原因をきちんと把握しているかどうかが塾指導者としては、絶対に外せない視点であろう。もちろん他の仕事でも同様である。少なくとも私は生徒が出してくる成績表に対して、「なんでだろう」ではなく、「これこれがこうだから、こうなんですよ」と道筋をいつでも示せる者でありたいと自戒する。

神尾塾では生徒に対して「なんで?」という問答を投げかけることが多い。何か生徒が一言発したら、私が「なんで?」と返す。生徒はその「なんで?」の答えを求めて考えたり調べ物をしたりする。そこで、一つの物事に対しての原因を接続させていく。このように結果と原因というワンセットをあちらこちらで繰り返していけば、物事の道理が生徒の頭の中でつながってくるはずで、今まで何となく、雰囲気だけで処理していた思考が論理的思考に進化していくと私は確信しているのである。