「徳」は、誰もが生まれつき身に付けているもので、更には後天的に高めることが出来るものです。問われるのは、その人が生まれ持って授かった能力がどのようなものかではありません。此の世に生を受けた後、その人が自分の意思で如何に己を磨いてきたかということです。
(SBIホールディングスCEO 北尾吉孝日記 2015-05-23より抜粋)

自分にとっての正しい行動とは何か。

私は「徳」ということを判断基準にしたいと考えている。つまり、その行為が「徳」を積むことになっているかどうかをまず考えるのである。単純に言えば「よい事をする」=「徳を積む」ということであり、「よくない事をする」=「徳を減らす」ということになる。「徳」とは目に見えない貯金のようなものであり、「徳」の貯金を積んでおけばいつか自分にとって喜ばしいことが還ってくるし、「徳」が枯渇していれば自分にとって良い先行きは開けてこない。

昔の人は、人の見ていない所で善い行いをすることを「陰徳(いんとく)を積む」と言った。自分が幸せになりたいのなら徳を積め、ということだ。

これは学生の勉強でも大人の仕事でも皆同じなのだが、自分に課せられた課題や仕事をコツコツと地道に、しかも誠実に取り組んでいくこともある種の「徳積み」と言える。「頑張っていれば必ず報われる」という言葉は正しいのである。逆に横道にそれて自分のなすべき使命(課題や仕事)を果たさなければ、それに応じた自分の境遇が与えられることになる。「因果応報」というのはまさにそれを示す言葉で、「善因善果」「悪因悪果」とも言うが、「原因」があってこそ「結果」が生じるという「因果の法則」は真理だろうと私は信じている。

と同時に「正負の法則」という事柄も存在していて、よい事が起こればその先によからぬ出来事が待ち構えているかもしれないし、自分にとって都合の悪いことが起きたからといって、その後によい展開が開けてくるかもしれないというプラスマイナスの埋め合わせの原理のようなものも存在しているのだろう、と思う。「人間(じんかん)万事塞翁(さいおう)が馬」という言葉もこれに近いと言えなくも無い。だから喜びすぎて調子に乗ってもいけないし、悲観しすぎて心を病む必要もないのだ。

結局は淡々と地道に自分のやるべきことに対して真心で取り組む、ということなのだが、そういうバランス感覚が必要だよ、という言葉を「中庸(ちゅうよう)」と言う。

「徳」の話に戻るが、
中学数学では「正負の数」の学習から始まるのだが、「+3+4=+7」は「徳に徳を重ねれば更に徳が増えるよ」という宇宙の法則を説いているし、「-3-4=-7」という「徳のないところに更に徳を減らすスパイラル」も同様。「-3+3=0」は「徳を減らしていても善行を積めばプラスマイナスゼロのスタート地点に戻れるよ」という教えでもある。

学生が勉強で学ぶことというのは、将来役に立つとか立たないとか、そういう視野の狭い話ではなくて、人生に直結している哲学を何とは無しに学んでいるのだ。

そろそろこの話を閉じよう。
日々、いろいろなことがあるけれども、私はこの言葉を日々の羅針盤にしている。


人を相手にせず、天を相手にせよ。
天を相手にして、己を尽くして人をとがめず、
我が誠の足らざるを尋ぬべし。

(岩波文庫「西郷南州遺訓」25より)

西郷隆盛(南州)の名言のひとつだが、
私はこう解釈している。


目の前にいる、その人だけに向き合っていると思うな。
その人を通して、天に対して仕事をしているのだと考えよ。
天と向き合っていることを踏まえて、自分の出来る限りの力を尽くして人を責めることなく、
仮にうまく行かなくても、自分の誠意が足りなかったかどうかをまず省みよ。

「徳」は人に対してではなく、天に対して積むものだから、南州翁が仰(おっしゃ)っているのは、「徳」の話だよね、という話。