人間は習慣の産物

順次ご家庭との面談を進めているのだが、面談の中心テーマになるのは「習慣」の話だ。

塾は「よき習慣」を身につけさせる場所になっていなければならない。例えば塾でおしゃべりが止まらない、とか論外の話だが、そういう習慣が長年身についてしまえば、それが身にしみて当たり前の行為になる。授業中に残り時間を気にする習慣があれば、それもその生徒にとっては当然のこととなる。無意識でそういった行動が出てきてしまうということなのだ。

同時に「面倒くさいなあ」という心理も習慣によって養われる。宿題をしない習慣であったり、文字を雑に書く習慣がこびりついてしまえば、その先に「面倒だな」という意識も習慣化され、何をするにも「面倒くさい」になってしまう。この点の配慮は生徒のやる気の問題というよりも、大人側の環境づくりの問題だと大いに言えるであろう。

最近「YDK(やれば出来る子)」とか「やる気スイッチ」といった宣伝文句を広告チラシなどで見かけるが、「やる気」を出すというのは大人でもなかなか難しい。大人になれば金銭的な問題であったり色々な場面で追い詰められることがあるから、嫌でもそれをしないといけない、という状況に追い込まれることがある。また、社会生活をしていく上で自分なりに問題意識を持つようになって、自分の中に「やる気」のようなものが芽生えてくることも無きにしもあらずだが、そういったしがらみや人生経験の少ない子供に「やる気を出せ」というのは無理な話だと私は思う。

そういうことではなくて、「やることが当たり前な環境」を習慣付ける、ということなのだ。例えば宿題をこれまでしてこなかった子は、「してこなかった」のではなくて「(大人が)させなかった」という所に問題がある。「おしゃべりを止めなかった」子というのは、「(大人が)おしゃべりを止めさせなかった」という環境整備に問題がある。つまりは、そうせざるを得ないという環境づくりに大人がどれだけ腐心するか、ということに尽きるのだ。

私の場合であれば、宿題をしなかった生徒がいれば、「1回目は見逃す。2回目は注意する。3回目は即帰宅させる」。このように段階を踏んで注意レベルを上げていって、最終的にその子にとって「いちいち帰宅することが面倒くさい」という意識を持たせることが出来れば、そこで宿題に着手させるための包囲網が一段階固まることになる。字が雑な子も同様で、字が雑ならば指導者が採点しなければよい。そのまま生徒に突き返して、「いちいち書き直すことが面倒だな」と「”逆”面倒くさい」意識を利用すれば、その後の生徒の文字は改善に向かうようになる。

このように、とにかく「習慣」が大切なのだということで、変な方向の習慣づけをしないように大人は注意深くならないといけないし、変な習慣が生徒に身についてしまっているとしたら、それは生徒自身ではなく、大人の責任だと言えるだろう。