秩序の崩壊は自分の首をしめる

神職の端くれとして、神職研修をしていた時代に徹底的に叩き込まれた観念は何かといったら、「上位・下位」の位置づけ。これに他ならない。大切なことは「何が貴いのか」を具体的に意識することだ。その上で、自分はへりくだる。国語で言ったら「尊敬語」と「謙譲語」の関係。まさにこれが当てはまるだろう。貴い存在に対して尊敬語を使い、自分は自分を卑(いや)しめるのではなく、へりくだるのだ。へりくだる、ということは自分が一歩身を引く、謙虚になるということ。

昨日も神社で祭典をしていたら、初めて来た中年の男性が、渡された祝詞(のりと)のプリントを片手でスッとひったくるように受け取り、「あー、こういう場で両手でゆっくり受け取ることも出来ないのだな」と残念な気持ちになったものだ。元日の午前0時からのお祭りでは、祭典が始まろうとしているのに年配の女性が社殿の中でペチャクチャと私語を止めず、「あー、静粛な場をわきまえられないのだな」と思ったりもした。要は何が貴くて、それに対して自分はどのように謙虚に振る舞うのか、という意識が現代ではますます薄くなっていると私は思うのだ。これには年齢は関係ない。

もう少し例を挙げると、大阪市の橋下市長を「橋下君」と呼んで、上から目線で本人に質問を浴びせようとする有権者であったり、安倍首相のことを「安倍ちゃん」とか揶揄するジャーナリストもいたりする。これ全て秩序の崩壊であって、「橋下市長」はあくまで「橋下市長」と呼べばよいのであり、「安倍首相」には「安倍首相」と呼ぶべきなのである。例えば、私にとって先生にあたる人物は永遠に「先生」であるし、その貴さの位置づけが私の中で変わることは一生ない。「先生」が「さん」や「様」に変わることはあり得ない。

これは神尾塾を運営してきた中で見えてきたことなのだが、面談で「神尾さん」と言ったり、メールで「神尾様」とか平気で書いてくる家庭は必ずうまく行かない法則があることが分かった。「先生」として奉れなどと言っているのではない。指導者に対して「さん」とかメールで「様」とか言えてしまう人と言うのは、秩序意識が薄い人であり、横一線で物事を見ているから謙虚さが保たれず、素直さが不足しているためにスムーズに指導が入りにくい。結果として指導を受けることに挫折してしまって自分の首を自分で締めるという残念な結果になる。

社会でも会社でも学校でも家庭でも、大切なのは秩序を大切にすることである。

(※年賀状の宛名に「様」を使うのはこの話の例外。印字ソフトによって「様」しか印刷できないものもあるため、ここに目くじらを立てるつもりは毛頭ない)