生徒本人が「自分の出せる力を出し尽くしてがんばっていること」「自分の頭で考えて工夫しながら行動していること」「良かれと思って行動していること」、この3点が見られる時には、大人はそれを否定してはいけない。
人間の行動に「より良い選択肢」はあったとしても「唯一の正解」はないはずだから、うまくいっても失敗しても、『どちらに転んでも学べる』ようにこの世の中は出来ている。だからこそ、自分で考えて行動していることは、結果がどうであれ後々納得がいきやすくなるから(他人から押し付けられたものではないから)、その学びを全うさせてあげた方がよい。
神尾塾の場合で言えば、勉強面において自分の考えである程度動けている生徒に対しては、私は細かな指摘は一切しないし、むしろ自由に泳がせておく。場合によっては本人が壁にぶつかることになったら、ぶつかった後で私が姿を現すようにする。
逆に、自分で考えてないロボットになってしまったり、中途半端な手抜き仕事をする生徒がいれば私は強く出るかもしれないし、場合によっては意地悪とも思える行動を取るかもしれない。
生徒の意識、力量、努力具合に応じていくらでも柔軟に変貌させながら「人をみて法を説く」指導を目指している。儒教の祖である孔子が目指したのも、その地点であっただろう。