教育の原点

「論語」は孔子とその弟子達の言行録であるが、孔子の周囲にそれぞれの個性ある弟子たちがいて、孔子はその弟子一人ひとりに応じて、教えや気付きのヒントを与えていく。だから、同じ事件が起きたとしても、弟子によっては真逆の回答を与える事もあるし、その根底には「人を見て法を説く」ということが常に流れている。

江戸時代に寺子屋というものがあったが、これは民間の教育所であり、武士を目指す浪人や医者が自分の屋敷に教室を構えて生徒たちに教えを授けていたのである。この寺子屋も、キーワードは「個別指導」である。つまり「人を見て法を説く」。同一でない年代の生徒が机を並べ、相手の段階、知力に従って、読み書きそろばんを授け、生活の規範や作法、しつけも同時に教えていたのである。

詰まるところ、孔子のいた約2500年前から続いているこの指導のスタンス。これが教育の原点であると私は認識している。

明治時代になり、公による学校教育が開始されたが、その後現在に至って、「プリントをページ順に揃えて提出出来ない」とか「きれいにプリントを二つ折りに出来ない」とか、基本的な習慣づけがすこぶる出来ていない生徒がそこら中にいる。特にこの鎌ヶ谷地域では、学年順位の中間以下は、まともにワーク提出も出来ていない、問題集を解いて埋めることも十分に出来ない、まして書く文字でさえ波状を描いてしまって、「まず文字を丁寧に書きなさい」という地点から指導しなければならない生徒になってしまっているのである。

この子たちはこれまでどのような義務教育を9年間も受けてきたのだろうか、と考えると、これは詰まるところ教育の「形骸化」というもので、形ばかり整えたのはいいが、中身の人間がついていっていない、現実の人間に則した教育が行えていないということなのだ。私がかつて勤めていた学習塾で、その塾長が「学校教育が進化すれば、我々学習塾は消滅するだろう」という予言をされていたが、私は真逆であると思う。

時代を超えて最終的に生き残るのは学校ではなく、この「人を見て法を説く」の個別指導スタイルを貫徹できる私塾であると考えている。