教育の敗北

一概に言えないけれども、先日の京都アニメーションの34名が殺害された放火事件を見ると、私の立場では「教育の敗北」ということを痛感する。

犯人固有の背景があるだろうし、本当に一概に言えないけれども、もし、犯人が生まれ育ってきた中で、彼に寄り添い、叱咤激励しながら自己否定や自暴自棄になるような原因をつみ取るような教育が学校や塾で出来ていれば、彼が犯行にいたる思い込みを生まなかったり、彼自身を善に向かわせることが出来たのではないか・・・とどうしても思ってしまうのだ。

先日、茨木市に用事があって阪急京都線に乗って相川駅に停車していたら、反対側を走っていた電車が長い長い警笛を鳴らして相川駅を通過しようとした。その直後、駅構内にけたたましいサイレンが鳴り響いた。

「当駅にて只今、人身事故が発生しました。状況を確認しますのでしばらく停車します」

車掌のアナウンスが聞こえると共に駅のホームが騒がしくなった。私自身、茨木市でのアポイントまで残り20分。車外に出ると、先ほどの通過列車が踏切の先で緊急停車し、駅職員がブルーシートを広げて遺体の回収を始めていた。

「しばらく京都線は動かないだろう」
すぐさま改札を出ながら安威川にかかる橋を渡り、胸が締めつけられる悲しさを覚えた。

どんな思いで線路に身を投げたのだろうか。
「迷惑だ」「家族が大変だ」の一言で済ませたくない。どれだけ思い詰めて、そうしてしまったのか。

何か、彼または彼女を変える出会いはできなかったのだろうか。一人で命を絶ち身を轢き殺した、彼または彼女の絶望をただただ見つめるしかない。

一昨日の土曜日、タレント宮迫と田村の会見を見た。
真実は第三者には絶対に永遠に分からない。カメラの前で頭を下げながら号泣する宮迫を見て、どこか彼を見下すような、他人が頭を下げるのを見ることに優越を感じるような、そういう悪魔の心に私たちはなっていないか?

教育の仕事は、生徒のうまくいっていない部分を整え、交通整理をし、悪い部分は改善を促し、正しい習慣、自らの足で前向きに歩く力を自らに気付かせる仕事である。

ずいぶん以前に、少年鑑別所の職員の方が書かれた本を読んだことがあって、犯罪を犯す少年・少女のなかに知的等の面での不安を抱えている者の割合が多いことを知った。

「やりなさい」「何でできないのか」「これぐらい出来て当たり前だろ」そういった無理な押し付けで、社会が彼らを自己否定に追いやっていったのではないか。

教育の役割は、悪いこと、不適切なことは毅然とただし、善に向かっていることは大いに背中を押し、細かいところに目を向けて、生徒自身の気の流れを整えていく仕事である。

成績、点数、偏差値の向上を目指すその先に、教育の責任の重さを背負い続けなければ、教育に携わる者自身がやがて地獄に落ちる。