修身教授録より~その3

昭和12年から14年にかけて、大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)における森信三先生の講義記録。

—(抜粋ここから)

◎読書(P.358)
読書ということは、われわれの修養の上では、比較的たやすい方法だと思うのです。したがってそれさえできないような人間ではてんで問題にならないわけです。つまり真の修養というものは、単に本を読んだだけでできるものではなくて、書物で読んだところを、わが身に実行して初めて真の修養となるのです。それゆえ書物さえ読まないようでは、まったく一歩も踏み出さないのと同じで、それでは全然問題にならないのです。

◎心(P.359)
心が生きているか死んでいるかは、何よりも心の食物としての読書を欲するか否かによって、知ることができるのです。

◎伝記(P.360)
優れた伝記の書物というものは、いかなる種類の人間も読むべきだと言えましょう。また人生のいかなる時期においても読むべきです。

◎志(P.360)
人間は12,3歳から17,8歳にかけては、まさに生涯の志を立てるべき時期です。すなわち一生の方向を定め、しかもその方向に向かっていかに進むべきかという、腰の構えを決めるべき時期です。しかもこの時期において、最も大なる力と光になるものは、言うまでもなく偉人の足跡をしるした伝記であります。

◎やり抜く(P.385)
最後までやり抜くということです。人間が偉いか偉くないかは、これで岐れるのです。

◎掃除当番(P.421)
たとえば掃除当番の場合などでも、友人たちが皆いい加減にして帰ってしまった後を、ただ一人居残って、その後始末をするというようなところに、人は初めて真に自己を鍛えることができるのです。それが他から課せられたのではなく、自ら進んでこれをやる時、そこには言い知れぬ力が内に湧いてくるものです。そこでこうした心がけというものは、だれ一人見るものはなくても、それが5年、10年と続けられていくと、やがてその人の中に、まごうことなき人間的な光が身につき出すのです。

◎学校の成績(P.467)
たしかに学校の成績というようなものは、その人の実力を、そのまま示すものではないとも言えましょう。しかしその人の忠実さ、その人の努力、さらに申せば、その人がいかほどまで、自分のなすべき当面の仕事をなし得る人間か否かということは、かなりな程度まで、これを示すと言ってよいようです。

ですから私は、学校の成績というものは世間でふつうに考えているように、必ずしもその人の素質を確実に窺い得るものとは思いません。それよりもむしろ、その人の素質と努力との相乗積を示すと考えた方がよかろうと思うのです。

そこでこのことからして、素質としてはかなり優秀でありながら、試験を軽蔑しているために悪い成績をとる人が少なくないわけです。つまりそういう人は、試験は人間の才能をそのまま示すものでない、という一面のみにこだわって、試験がその人の努力と誠実さを示すものだという、他のより大事な一面を看過しているわけです。これすなわち、なまじいなる才知がかえって自らつまずくというものです。

◎素質(P.469)
単に自分の素質をたのんで、全力を挙げて自分が現在当面している仕事に没頭することのできない人は、仮にその素質はいかに優秀であろうとも、ついに世間から見捨てられてついには朽ち果てるの外ないでしょう。

かくして人が真に自分を鍛え上げるには、現在自分の当面している仕事に対して、その仕事の価値いかんを問わず、とにかく全力を挙げてこれにあたり、一気にこれを仕上げるという態度が大切です。

以上の事柄に関連して、もう一つ平生私の痛感していることがあります。それは私が現在、学生時代を顧みるに、学生時代に自分の素質をたのんで試験をおろそかにした人は、その後の歩みを見るにいずれも芳しくないようです。つまり素質としてはよくても、結局世間に出てから、大したこともせずに終わろうとしています。

今専攻科にいる一人の人で、名前はちょっと差し控えますが、これとは別の例もあります。というのもその人は、1年生から3年生頃までは、50人中30番前後にいた人です。ところが4年の3学期に、ふとしたことから、「学校というところは、試験の成績で生徒の価値を判定するところである」と悟って、それから俄然として目を覚まし、それ以来試験に対しては全力を挙げてあたるようになったのです。そこで成績もめきめきと上がって、今では専攻科生80人中の2番になっています。そこで先生方のその君に対する見方も一変して来ているのです。学校でさえすでにこのようです。いわんや社会においてをやです。

獅子はいかに小さな兎を殺す場合でも、常に全力を挙げてこれを打つと言われています。ですから諸君たちも一つこの3学期には、クラスの全体を挙げて成績を高めるがよいでしょう。これ一つできないようでは、平素何を言ってみたとて駄目なことです。

◎百二十点主義に立つ(P.474)
常に自己の力をありったけ出して、もうひと伸(お)し、もうひと伸しと努力を積み上げていくんです。そこで真面目とは、その努力において、常に「百二十点主義」に立つということです。

◎時間(P.476)
人間は、人生に対する根本の覚悟さえ決まっていれば、わずかな時間も利用できるようになるものです。

◎礼(P.477)
私は教育において、一番大事なものとなるものは、礼ではないかと考えているものです。

◎精神(P.501)
武道や運動をやっている人は、単に技を磨いただけではいけないのです。一つの技で磨いた精神が、その人の生活のあらゆる方面に発揮されなくちゃいけないです。

◎短い時間をむだにしない(P.503)
一日の予定も完了しないで、明日に残して寝るということは、畢竟人生の最後においても、多くの思いを残して死ぬということです。つまりそういうことを一生続けていたんでは、真の大往生はできないわけです。では、今日一日の仕事を、予定通りに仕上げるには、一体どうしたらよいでしょうか。それにはまず、短い時間をむだにしないということでしょう。

それについて私の感心したのは、昨日、専攻科のある生徒が電話で友人を呼んで、友人の来るまで控室で待つことを打ち合わせたというのです。ところが、私がフト入ってみると、すでに5時をすぎた火の気のない控室で、盛んにせっせとものを書いているんです。ついでですが、その生徒というのは、病気のために一学期間休学していた人なんです。

私はそれを見て「この寒い部屋で、今頃何をしているんです」と尋ねますと、「15日に提出する国語の課題をやっています」という返事でした。15日なら、まだ5日も間があるのに、それをその寒い部屋で、しかも病後の身で、おまけに今にも来るかも知れない友人を待ち合わせながら、夕闇のしのび寄っている中で、せっせとやっているのを見て私は、「もしこの人がこの心がけを一生忘れなかったら、必ずや一かどの人物になるに違いない」と思ったことでした。

—(抜粋ここまで)

※出典:『修身教授録』(森信三・著、致知出版社)