彼岸の墓参

神社の人間であるが、昔からの菩提寺もあるので春と秋の彼岸には墓参りに行っている。母方は早稲田、父方は江戸川区の平井にそれぞれ寺がある。これまでは墓参りといえば都内の2箇所だけだったのが、3年前に母が先祖の仲間入りをしたので市川に墓所が増えてしまった。

先日振り返った田内先生もそうなのだけれど、
http://kj-log.cocolog-nifty.com/kamiojuku/2013/11/post-d2aa.html

人生の年数を重ねていくということは、親しんだ人と別れの回数を重ねていくということでもあり、
最近は私の年齢でも、かつて学生の頃は考えもしなかった「自分はあと何年生きるのだろう」「死ぬまでに何が出来るのだろうか」「この気力・体力はあと何年ピークが維持できるのだろう」とそんなちょっとした終末へのカウントダウンを何となく感じ始めているのである。

で、身内の死に関しては、
母は胃がんだったこともあり急激に容態が悪化していったのだが、その最中は弱っていく過程を傍らで見ているから、その先に死があることは悲しくないと言ったら嘘になるけれども、それほどの悲しさではなかった。泣いたときと言えば、亡くなった日ではなく、母がこれから死に行くことに気づいてしまった闘病末期のことであったろう。

後始末やら何やらで、葬儀に来た人が泣くほど身内の人間は悲しみに包まれている余裕はないのだ。しかし、だ。しかし、亡くなってから3年も経つと、その弱りゆく過程というものが自分の記憶の中からすっぽり抜け落ちつつあって、その代わりに「死んだ」という事実だけがくっきりコントラスト強く自分のなかに厳然と突きつけられるのだ。

これが実につらい。ということがこの頃分かってきた。そんなこんなで先日の彼岸の墓参は一番悲しい手向けであったことは間違いない。

まして震災で身内を突然亡くした方など、何年何十年経っても悲しみが癒えないのは当然だよね、と心底思う。一期一会という言葉を今改めて、かみしめている。

この記事を書いた人

kamiojuku