希望を失くさない

先週木曜日の朝、郁文館に向かうため新京成線松戸方面の電車に乗っていた時のことだ。
私はよく先頭車両に乗って運転席の後ろで前方の景色を眺めていることが多いのだが、この日は何となくいつもの場所には行かず、最前部から2番目の扉付近で立っていた。

八柱を出てみのり台に差しかかった頃、車内に急停車を告げる緊急放送が流れると同時にけたたましい警笛が鳴り響き、急ブレーキがかかった。そして最前方にいた中年の男性が「やめろ!あぶない!やめろ!!わーー!!!」と叫んでいる。同じく最前方にいた数名の乗客が後方に向かって走ってきた。

私はとっさに福知山線の脱線衝突事故の映像を思い出し、これは大変なことになるのかもしれない、と逃げる体勢を取ろうとした。とするうちに列車は停止し、「やっちゃったよーー!!見ちゃったよ」という先ほどの男性の声が聞こえてきた。

40~50代の女性が、警報音の鳴り響く踏切内に侵入して、向かってくる電車の方を向いて立っていたというのだ。自殺だった。

中年の男性はすぐさま携帯電話で119番に電話をしていたが、そうする間もなく鉄道会社からの連絡で救急車と消防車が到着し、近くの保線職員も毛布を抱えてやってきた。間もなく2両目の前方から、遺体は毛布にくるまれて運び出された。運行再開するまでに15分と掛からなかった。遺体の損傷が激しくなかった、というのが一番の理由だとは思うが、列車は終点松戸に着き、その後再び京成津田沼行きとして折り返していった。

車内アナウンスをする車掌の声は震えていたが、日常から人身事故が起こることを前提として徹底訓練されているのだろう。あまりにスピーディな処理がなされたことに私は驚いてしまった。さっきこの電車で亡くなった人がいるの、なんてことを知っているのはその時列車に乗り合わせた一部の人だけであって、その列車は次から次へと到着する駅で何事もなかったかのように新しい人々が乗り降りしていく。

そんな光景が日常茶飯事となっている首都圏の鉄道事情だが、もうひとつ驚いたのは、事故直後であってもずっとスマホに見入っている人が少なからずいたことだった。1つの座席シートに4~5人はそんな感じだったかもしれない。これが「現代」ということなのか。「事故」は命を絶った人のみにとって重大なことで、他の人にとっては流れていく景色の一つでしかないのかもしれない。

どういった事情でその人が死を選択したのかは私には勿論分からない。しかし、何かひとつでも希望がありさえすれば、状況は変わっていたのかもしれない、とも思う。すべての希望を失ってしまった、ゆえの行動だとしたら、あまりにも悲しい。

神尾塾は色んな学年の、色々な状況や立場の生徒が優劣をつけられることなく肩を並べて学んでいる学習環境を理想としているのだが、この言葉の通り、様々な生徒がいる。不登校とか学習に困難を抱えている生徒、というのもそうだけれども、学校を含めてその生徒にとって最適の学習や指導環境が与えられずに育ち、希望を見失って入塾してくるパターンも多々ある。

そういう子にとって、一人ひとりに真向かいながらケアをしていくことと、長期的な取り組みで自信を持たせる学習プランを組んでいくことで、自己肯定する力を取り戻し、生徒自身の表情が変化してくることも少なくない。ふとした時に「できた!」という笑顔を見せることもあるし、この子は今なんとなく「ルンルン」の気分なのだろうな、と見えてくることもある。

私は普段の授業の中ではむしろ仏頂面でいることの方が多いと思うが、そういう表面的なことではなく、中身のある継続的な取り組みをしていくことで生徒にとって神尾塾がひとつの「自分を認められる居場所」になって、それなりに一人ひとりの生徒が充実を感じられるようになっているのかな、と思う。

そうやって「自分自身を認められる」自己肯定の気持ちを育んできた生徒ならば、今後の人生で多少つらいことがあったとしても、最後の絶望にまで至るようなことにはならないだろうし、今私にできることは目の前にいる生徒一人ひとりに「希望を失わせない」教育を実践することだ、と心の底から思うのだ。

命を絶たれた方の御霊の冥福を祈ります。