修身教授録より~その2

昭和12年から14年にかけて、大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)における森信三先生の講義記録。

—(抜粋ここから)

◎人間の知恵(P.134)
人間の知恵というものは、自分で自分の問題に気付いて、自らこれを解決するところにあるのです 。教育とは、そういう知恵を身に付けた人間をつくることです。

◎自己を形づくる支柱(P.134)
人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形づくる支柱となるのです。単に受身的に聞いたことは、壁土ほどの価値もありません。

◎真の値打(P.134)
同一のものでも、苦労して得たのでないと、その物の真の値打は分からない。

◎本(P.137)
本を読む場合、分からぬところはそれにこだわらずに読んでいくことです。そうしてところどころピカリピカリと光るところに出合ったら、何か印を付けておくのもよいでしょう。そして一回読み終えたら、少なくとも2、3ヵ月は放っておいて、また読んでみるのです。そうして前に印を付けたところ以外にもまた、光るところを見つけたら、また新たに印を付けていく。そうして前に感じたことと、後に感じたことを比べてみるのは面白いものです。 書物というものは、義務意識で読んだんでは駄目です。義務意識や、見せびらかし根性で読みますと、その本の3分の1はおろか、5分の1の味も分からないでしまいます。

◎読書の順序(P.138)
読書の順序は、まず第一には、当代における第一流の人の本を読むこと、その次は古典です。

◎血、育ち、教え(P.144)
人間というものは、血、育ち、教えという3つの要素からでき上がると言えましょう。ここに血とい うのは血統のことであり、さらには遺伝と言ってもよいでしょう。また育ちというのは、言うまでもなくその人の生い立ちを言うわけです。家庭における躾というものは「育ち」の中にこもりますから、教えとは、家庭以外の教えということです。

◎鍛錬(P.160)
われわれ凡人は人生のある時期において、何らかの意味でかようなきびしい鍛錬をその師から受けない限り、真の人間とはなれないのではないでしょうか。

◎一生の基礎(P.168)
人間の一生の基礎は、大体15歳までに決まるものだと思うのです。したがってその年頃になるまでの教育は、相手の全人格を左右して、その一生を支配する力を持つわけです。

◎日常生活の充実(P.176)
日常生活を充実したものにするとは、一体何なのかと言えば、これを最も手近な点から言えば、結局なすべき仕事を、少しの隙間もおかずに、着々と次から次へと処理して行くことだと言ってもよいでしょう。

◎仕事の処理上の心がけ(P.176)
第一に大切なことは、仕事の処理をもって、自分の修養の第一義だと深く自覚することでしょう。この根本の自覚がなくて、仕事を単なる雑務だなどと考えている程度では、とうてい真の仕事の処理はできないでしょう。

◎とにかく手をつける(P.178)
このように明弁せられた順序にしたがって、まず真先に片付けるべき仕事に、思い切って着手するということが大切です。この「とにかく手をつける」ということは、仕事を処理する上での最大の秘訣と言ってよいでしょう。次に大切なことは、一度着手した仕事は一気呵成(かせい)にやってのけるということです。

◎秩序(P.212)
世の中というものは、秩序の世界であり、秩序の世界というものは、必ず上下の関係によって成り立つものです。

◎志が欠けている(P.236)
わが国の教育で、現在何が一番欠けているかと言えば、それは制度でもなければ設備でもなく、実に人的要素としての教師の自覚いかんの問題だと言うべきでしょう。かくして今日教育の無力性は 、これを他の方面から申せば結局「志」という根本の眼目が欠けているということでしょう。なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、また型どおりに試験も受けてはいます。しかし肝腎の主人公たる魂そのものは眠っていて、何ら起ち上がろうとはしないのです。

志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、急に眼を見ひらいて起ち上がり、自己の道を歩き出すということだからです。何年、否何十年も学校に通いながら、生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、学校を卒業するのが、大部分という有様です。ですから、現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ち上がり、歩くなといっても歩き出さずにはいないものです。食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです。

◎欠点(P.238)
そもそも人間というものは、自分の欠点に気付き出した時、すでにその欠点を越えようとしつつあるといってもよいでしょう。

◎真の良書(P.241)
真の良書というものは、これを読むものに対して、その人の人生行路を決定していく意義を持つと言ってもよいからです。

◎真の誠(P.250)
真の誠とは、その時その時の自己の「精一杯」を尽くしながら、しかも常にその足らざることを歎(なげ)くものでなくてはならぬからです。

◎誠に至る(P.252)
誠に至るのは、何よりもまず自分の仕事に全力を挙げて打ちこむということです。かくして誠とは、畢竟(ひっきょう)するに「己れを尽くす」という一事に極まるとも言えるわけです。すなわち後にすこしの余力も残さず、ひたすらに自己の一切を投げ出すということでしょう。 これは自分が体当たりで打ちかかっていくところから、そこにおのずと開けてくる道と言ってもよいでしょう。

◎至誠(P.254)
松陰先生は「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」とおっしゃっていられますが、諸君らはこれを只事と思ってはならぬのです。自分のすべてを投げ出していく必死の歩みなればこそ、誠は真の力となるのです。

◎学問とは(P.272)
学問というのは、現実の生きた道理を明らかにすることを言うわけです。そしてそれが真の哲学というものでしょう。

—(抜粋ここまで)

この講義の当時、森信三先生の御年齢は43歳である。

※出典:『修身教授録』(森信三・著、致知出版社)