大人の無責任

私はこの塾通信の中で「自分で考えて行動する」ことが大事だということをよく書いているのだが、今日はそのことを少し掘り下げてみようと思う。

よく、進路や将来のことを「自分で考えなさい」、節目節目の選択科目などを「自分で判断しなさい」と大人が言う場合が多いのだが、これは基本的に危険だと私は思っている。

もちろん、これらは「正論」だとは思う。しかし、中学生、高校生はまだあくまで発展途上の段階であり、情報と経験のインプット量が大人に比べて圧倒的に少ない。そんな少ない情報数・経験値の中で、自分の方向性や選択を判断させるのは、危険だと言っているのである。

神尾塾の自習スペースを例に挙げよう。
自習スペースは、本来自分が勉強したい時に、勉強したい内容を自発的に持ってきて取り組むことこそが自習である。しかし、現実はそんなに上手くはいかない。「自分で考えていらっしゃい」なんて生ぬるいことを言っていたら、一生来ないのである。だから私は、自習日時と自習内容をあらかじめ細かく設定し、私の視線の監視の下で自習を始めさせるのである。

つまり、大人がレールを敷いてしまうのだ。そして、そのレールは厳密に1から10まで縛られたレールではなくて、その中で本人がどう動くのかを大人側が観察できるような「泳がせる」余裕を持たせるのである。あえて「泳がせる」微妙な空隙(すき間)を用意することで、そこで本人の「自主性」というものを育んであげるのだ。大人が子供のことを客観的に観察し洞察し続け、「かくあるべし」と信念を持った上でレールを敷くこと。その中で大いに泳がせてあげること。これを私は「自主性」と呼ぶのである。

だからこそ、予備情報も人生経験も薄い段階で、「あなたの信じた通りに動きなさい」というのは、極めて大人の無責任であり、欺瞞(ぎまん)であろうと私は考えている。

こんなことを言うのも申し訳ないが、中学高校生なんて、物心がついているようでいて付いていないと私は思っている。現に私の中学高校時代なんて、今思えば夢の中でうたた寝していたのではないかと思うくらいにロクなものではなかった。ここでは言えない"悪いこと"も結構してきている。もちろん、私の過去が現在の皆の姿ではないのでもちろん立派に志を構えている生徒が塾生の中にいることも私は知っている。ただし、これはごく一部のことであり、概ねの生徒は「眠っている」と私は思っている。

ということで、自主性、本人に判断させるという家庭が年々増えていると思うが、私はそこに警鐘を鳴らしたい。自分が本当に見えていない時期での本人の判断ほど危険なものはない。いずれにしても、大人側自身が日々心を磨き、確信をもって子供をリードするべきであって、それがいずれ自転車の補助輪となり、やがて手を離しても立派にやっていける人材を作ることに繋がるのだと思う。

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kamiojuku