大学章句

まず、儒教について。

儒教=孔子(紀元前552年-紀元前479年)を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国におこり、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ。(wikipedia)

孔子の思想を伝える書物として、「論語」「孟子」「大学」「中庸」の4種が「四書(ししょ)」として重要視されている。今から2500年前といえば日本は縄文時代であったが、この頃に孔子は登場し、弟子たちへの言行を通して多くの思想を今にのこしている。

さて、東洋学者金谷治先生による「大学・中庸」(岩波文庫)から、『大学章句』序 第1節を読んでみよう。

~初めに「大学」は古(いにし)えの教育法を述べた書物だと総括し、人類にとって教育が必須であることの理由を述べる。

『大学』は昔の大学で人々を教育した、そのあり方を述べたものである。人間は初めてこの世界に生み出された当初から、既に誰もが平等に、仁・義・礼・智といった本性を与えられていた(性は善なり)。けれども、万人同一の本性とは別に、人間はまた「気や質」というものを受けていて、その受け方は万人平等ではない。そこで「気と質」のあり方に遮(さえぎ)られて、誰もが皆自分の本性を自覚して、それを完全に実現することが出来ないでいる。こうした状況の中で、もし優れた聡明(そうめい)と深い叡知(えいち)を備えて自分の本性を十分に発揮することの出来る者が現れると、天は必ずその人に命じて億兆民くさの君であり師である天子とならせ、人々を統治し教化して、人々が本来備えている本性に目覚めてそこに復帰するよう指導させることになる。

人間は生まれながらにして「仁・義・礼・智」という、生まれながらにして善である(性善説)という本質を持っている。しかし、同時に人間は個人により異なる「気と質」というものも保有しており、それが”かさぶた”のように邪魔をして、本来の性善の素質を覆い隠してしまっている、という。

そこで、「優れた聡明と深い叡智」を備えていれば、自分の生まれながらの性善としての本性を発揮することができ、その人物は人々の指導者として持ち前の能力を全うすることが出来るようになる、と述べている。ここまでが、人間の存在についての大前提を述べている。

ここで、『大学章句』序 第2節を読んでみよう。

夏(か)・殷(いん)・周の三代に教育制度は整備された。都から地方の村落に至るまで、どこにでも学校が設けられるようになった。人は生まれて八歳になると、天子から庶民の子弟まで皆小学校に入れ、そこで水を打って掃除をしたり、人との受け答えをしたり、立居(たちい)振舞(ふるまい)の折り目や礼儀作法と音楽、弓(きゅう)射(しゃ)や馬車の扱い、読み書きと算数などの六(りく)芸(げい)の学科を教えた。子弟が十五歳になると、天子の皇太子と皇子たちから公(こう)・卿(けい)・大夫(たいふ)および天子に仕える士人の嫡男(ちゃくなん)、そして万民の中から選ばれた俊秀(しゅんしゅう)に至るまで全て大学に入学させ、そこで理を窮(きわ)め、心を正し、わが身を修め、人を治めるための方法を教えた。これこそ学校教育の中で大学と小学の区別が立てられた理由である。

人間の土台を築き上げるのが「小学(校)」であるとして、その教育内容を示している。そして、その土台が築き上がってこそ、次の段階で「大学」という存在が現れる。小学校で人間の振る舞い、行動の規範を教え、あるべき人間の土台が出来た上で、次に、さらに自身を修めていく、ひいては人をも治めていく、高等教育としての「大学」存在が浮かび上がってくる。

ここにおいて、「小学」と「大学」の違い、そこで学ぶべきことは何であるかということが明確になるだろう。さらに読み進める。

当時の人々は誰でも学び、学んだ者は自分の本性として元々備わっている高貴な道徳性を自覚し、また自分に割り当てられた任務として為すべきことをわきまえて、各人それぞれにひたすら力を出し切って努力した。古い昔の黄金時代、朝廷の政治は充実し、民衆の風俗も立派で、後世の及びもつかない状態であったのは、そのためである。

ここまでで、何のために教育があるのか、何のために勉強をするのか、という理由と目的がひとつの筋道を立てて見えてきた。

つまり、第1章で述べていた、人間のなかにある両面、つまり「本性」と「それを覆い隠すもの」の対立。そこで教育を得て勉強をし、学びを進める中で前者である「本性」を磨き出してあぶり出していこうとするもの(「優れた聡明と深い叡智」を身につける、または自分の中に発見すること)。

勉強をするということは、自分の中にある人間本来の「仁・義・礼・智」の本性を表に出していくための行為だということなのだ。そして、先ほどの文章をもう一度読んでみる。

学んだ者は自分の本性として元々備わっている高貴な道徳性を自覚し、また自分に割り当てられた任務として為すべきことをわきまえて、各人それぞれにひたすら力を出し切って努力した。古い昔の黄金時代、朝廷の政治は充実し、民衆の風俗も立派で、後世の及びもつかない状態であった。

結局のところ、これら一連の流れによって、人間が単なる動物ではなく高度な精神性を持った存在として、豊かに生きる、充実して生きる、納得して生きる、幸せに生きる、こういった皮膚感覚の幸福感のようなものを得ること、人間の根源的な欲求を満たすということなのではないだろうか。

以上、私の主観で解釈してみた。
学校は何のためにあるのか、教育とは何なのか、勉強の目的は何か、大人は子どもに何を与えていくべきなのか、その本筋のこと。これらをもって究極の問いに答えられているような気がしている。

この記事を書いた人

kamiojuku