橋本左内『啓発録』

橋本左内は天保5年(1834)、越前国(現在の福井市)で医師の家に生まれた。自らも西洋医学を学び福井藩の藩医となるが、学問への熱意が強く、江戸で遊学した際には西郷隆盛らと交流している。24歳になると、第16代藩主の松平春嶽に見出され、藩校・明道館(めいどうかん)の第2代校長に任ぜられた。

やがて藩主の側近として徳川幕府の改革に関与するようになり、開国論を展開して、当時の列強だったイギリス・ロシアのいずれかと同盟を結び、日英同盟または日露同盟を成立させることが日本の生き残るための要件であることを主張した。国際連盟の必要性もすでに予見しており、日本の近代化について先駆的な思想を持っていたということになる。

その後第14代将軍に一橋慶喜を担ぎ上げるために奔走するが、反対派の井伊直弼が大老となり、井伊直弼を筆頭とした南紀派の徳川慶福(よしとみ)が家茂(いえもち)として第14代将軍に就くことによって、松平春嶽ら一橋派は謹慎処分を受け、左内は斬首の刑に処された(安政の大獄)。享年26歳。

その橋本左内が、自己の規範として満14歳の時に記したのが『啓発録』である。『啓発録』は、「稚心(ちしん)を去る」「気を振(ふる)ふ」「志を立つ」「学に勉(つと)む」「交友を択(えら)ぶ」の5項目で構成されており、少年が学問に志す場合の、まず確立しなければならない重要な問題について述べられている。

『啓発録』の中から、「志を立つ」を読んでみよう。

「志を立つ」
志を立てるというのは、自分の心の向かい赴(おもむ)くところをしっかりと決定し、一度こうと決心したからには真直(まっすぐ)にその方向を目指して、絶えずその決心を失わぬよう努力することである。ところで、この志というものは、書物を読んだところによって、大いに悟るところがあるとか、先生や友人の教えによるとか、自身が困難や苦悩にぶつかったり、発憤(はっぷん)して奮い立ったりして、そこから立ち定まるものである。

従って、呑気(のんき)で安楽に日を送り、心がたるんでいる状態では、とても立つものではない。志の立ち定まっていない者は、魂のない虫けらと同じで、いつまでたっても少しの向上もないが、一度志が立って目標が定まると、それからは日に日に努力を重ね成長を続けるもので、まるで芽を出した草に肥料のきいた土を与えたようになる。

昔から学問・徳義(とくぎ)が衆人にすぐれていたとされる偉人でも、目が四つあり口が二つあった訳ではなく、その志が大きく逞(たくま)しかったから、ついに天下に知らぬ人もないような名声を得るに至ったのである。世の中の人の多くが、何事もなし得ずに生涯を終わるのは、その志が大きく逞(たくま)しくないためである。

志を立てた人は、ちょうど江戸へ旅立つことを決心した人のようで、朝福井城下を出発すれば、その夜は今庄(いまじょう)、翌晩は木の本(きのもと)の宿場というように、だんだん目的地に向かって進んで行く。旅人が目的地とする江戸は、志を立てた者が目標とする聖賢豪傑(せいけんごうけつ)の地位にあたる。今日聖賢豪傑になろうと志を立てたなら、明日あさってと次第に自分の聖賢豪傑らしからぬ部分を取り去っていく。そうすれば、どんなに才能が足らず、学識のとぼしい者でも、最後には聖賢豪傑の地位に到達できるはずである。それはちょうど、どんなに足の弱い旅人でも、一度江戸行きを決意し出発したなら、最後には江戸に到着するのと同じことである。

さて、右のような志を立てる上で注意すべきことは、目標に到達するまでの道筋を多くしないことである。自分の心を一筋に決めて、守りやすくしておくことが大切である。とかく少年の間は、他の人のすることに目が散り心が迷うもので、人が詩を作れば自分も詩を、文章を書けば文章をといった具合になりがちである。武芸でいっても、友人が槍(やり)の修行に精を出しはじめると、自分が今日まで修行してきた剣術を中断して、槍術(そうじゅつ)を習いたくなるものであって、このように心を迷わすのは、志を遂げられぬ第一の原因となる。

それゆえ、物事を分別する力が少しでもついてきたら、まず自分自身で将来の目標と、それを達成するための方法を、しっかりと考え定め、その上で先生の意見を聞いたり友人に相談するなどして、自分の力の及ばぬ部分を補い、そうして決定したところを一筋に心に刻み込んで、行動を起こさねばならない。必ず、学ぼうとすることが多岐にわたり過ぎてそのために目標を見失うことのないように、注意したいものである。

すべて、心が迷うということは、心の中にしようと思う筋道が多すぎることから生ずるものであって、従って心が迷い乱れるのは、まだ志が確立されていない証拠といえる。志が不確定で、心も迷い乱れては、とても聖賢豪傑になれるものではない。

とにかく、志を立てる近道は、聖賢の教えや歴史の書物を読んで、その中から深く心に感じた部分を書き抜いて壁に貼りつけておくとか、常用の扇などに認(したた)めておくとかし、いつもそれをながめて自己を省みて、自分の足らぬところを努力し、そして自分の前進するのを楽しみとすることが大切である。また、志が立った後でも、学問に励むことを怠れば、志が一層太く逞(たくま)しくならずに、ともすれば、かえって以前の聡明さや道徳心が減少し、失われてゆくものであるから、注意しなければならない。

これが橋本左内、満14歳で記した文章である。

次に、藩校明道館(めいどうかん)の洋学科設立に際して、左内が24歳の時に書いた文章も読んでみよう。

「学問とは」
学問とは、人として踏み行うべき正しい筋道を修行することであって、技能に習熟するだけのものでは、決してない。ところが、とかく学問とは技能の修行と心得ている者が多くて、自分は学者になる家柄に生まれたのではないし、またそのつもりもないから、そう深く学問をする必要はないなどと、口ぐせのようにいっている人を見かける。これは結局のところ、学問を技能の修行と心得ることから生ずる間違いである。たとえ、どんなに詩文などを上手に作れるようになっても、故事などを博(ひろ)く暗記したとしても、それだけでは一種の芸人となり得たに過ぎない。

仁義の精神を体得し、君臣(くんしん)・父子・夫婦・長幼(ちょうよう)・朋友(ほうゆう)という人間関係の中で、守るべき道義を明らかにし、祖国を守り治める道を修行することは、学者に限らず誰もが学ばねばならない問題である。それ故に、以上の条々(じょうじょう)にも述べてきたように、学問は生涯を通じて心掛けねばならないものなのである。右の趣旨をよくよく理解し、学問の本質を取違えた学生が出ないよう、注意して指導することが大切である。

※原文
学問は道の修行にて、芸術のみの修行にてはこれ無き義勿論に候ところ、兎角(とかく)芸能のみと心得(こころえ)候者これ有り、自ら儒官(じゅかん)になり候身分にはこれ無く候間、深く学問いたし候には及ばずなどと、常に能(よ)く申す人これ有り候。畢竟(ひっきょう)、学問を技芸と心得候よりの間違ひに候。たとひ、なにほど詩文等を巧みに作り候とも、故事等を博(ひろ)く覚え候とも、そればかりにては、一個の芸人にて候。仁義を旨(むね)とし、五倫(ごりん)を明らかにし、家国を治め候修行は、儒官にあらずとも、誰も同様のことに候。これによりて、前条申し述べ候通り、学問は生涯のことと心得申すべき事。右の旨、よくよく心得まかりあり、取違ひの者これ無きやう、引立て方(かた)専要(せんよう)に候。

原文は声に出して読んでみるのが良いと思う。それだけでも充分に内容が伝わってくるはずだ。
この中で「君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」について書かれている部分があった。これを五倫(ごりん=人として守るべき五つの道)という。

明治維新をなし遂げ、その後西南戦争に散った西郷隆盛が、亡くなったその瞬間まで肌身離さず軍用カバンの中に入れていたのが、その20年前に亡くなられた橋本左内からの書簡だったという。親友でもあった西郷が7歳年下の左内をいかに慕っていたかということだ。

明日、10月7日は橋本左内の旧暦の命日となる。左内の精神をつめの先ほどでも頂きながら学びつつ、気を引きしめて日々生きていかねばらない。

※参考文献:『啓発録』(伴五十嗣郎・全訳注、講談社学術文庫)