道理を知る

計算から得られる学びは、まさに「道理を知る」ということなのだ。道理、つまり物事の順序、道筋といったことである。一足飛びに階段を5段目から9段目まで飛び越えてしまうことは出来ないし、世の中の何事にも手続き、順序といったものが必ず存在する。

広島で大きな土砂災害があって、大勢の方々が犠牲になり、今現在でも多くの人が不自由な生活を余儀なくされている。明日は我が身で、自分の身の回りで突然災害に見舞われるかもしれない昨今ではあるものの、広島の例は山を削っての無理な土地開発であったり、先人が地名に「八木蛇落地悪谷」なんて刻んだ土地に現代人が再び住んでしまったことなど、やはり道理にかなわないことがそこに存在していたから、そういうことが起きてしまったのではないか、と言えなくもなさそうである。

この数日の低温もそうだが、地震、台風、竜巻など、気象・災害といった地球の息吹に対して、私などはすごくビクビクと心細くなっている。流れていくべきものは流れていくのだろうし、消えていくべきものは消えていくのだろう。動いていくべきものは動いていくのだろうし、壊れるべきものは壊れていく。知人がこれを「暴かれる」という言い方をしていて、なるほど、と思ったのだけれども、自分自身、または自分が携わっている人、機構などが「暴かれる」ことのないように、また「暴かれる」ような濁りを持つことがないように、澄んだ自分でいることを目指すということと、世の中の底に流れている「道理」とはどんなものだろう、ということをそれぞれ追究することが、現代人の心がけるべきテーマのひとつかな、という気がしている。