修身教授録より~その1

昭和12年から14年にかけて、大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)における森信三先生の講義記録。

—(抜粋ここから)

◎真に自己を生かすゆえん(P.13)
ここにこうして一年間を共に学ぶことになったことは、天の命として謹んでこれをお受けし、ひとり好悪を言わないのみか、これこそ真に自己を生かすゆえんとして、その最善を尽くすべきだと思うのであります。

今私の申したことは、広くは人生におけるわれわれの態度の上にも言い得ることであって、われわれはこの世において、わが身の上に起こる一切の事柄に対して、すべてこのような態度をもって臨むべきだと思うわけです。ですから親が病気になったとか、あるいは家が破産して願望の上級学校へ行けなくなったとか、あるいはまた親が亡くなって、本校を終えることさえ困難になったとか、その外いかなる場合においても、大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として謹んでお受けをするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。

ですからこの根本の一点に心の腰がすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。以上申した事柄は、これを他の言葉で申せば、われわれはすべてわが身に連なるもろもろの因縁を辱(かたじけな)く思って、これをおろそかにしてはならぬということです。

◎教育という織物(P.14)
教育という織物の場合には、教える方と学ぶ方と、この双方の気持ちがピッタリと合わなければ、とうてい立派な織物はできないからであります。

◎人生の根本目標(P.17)
われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人として生をこの世にうけたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にないと考えるからです。そしてお互いに、真に生き甲斐があり生まれ甲斐がある日々を送ること以外にはないと思うからです。

◎現在の学校教育(P.53)
どうも現在の学校教育では、学問の根本眼目が、力強く示されていない嫌いがあるのです。それ故幾年どころか、十幾年という永い間学校教育を受けても、人間に真の力強さが出て来ないのです。

すなわちわが身自身を修めることによって、多少なりとも国家社会のために、貢献するような人生を送らずにはおかぬという志を打ち立てて、それを生涯かけて、必ず達成するというような人間をつくるという点が、どうも現在の学校教育には乏しいように思うのです。しかしそれというのも、結局は今日、学校教師その人が、自ら真に志を懐くことなく、したがって教育と言えば、ただ教科書を型通りに教える機械のようなものになっているところに、その根本原因があると言うべきでしょう。

◎何のために学問修養をすることが必要か(P.56)
ではわれわれは、一体何のために学問修養をすることが必要かというに、これを一口で言えば、結局は「人となる道」、すなわち人間になる道を明らかにするためであり、またこれを自分という側から申せば、自分が天からうけた本性を、十分に実現する途を見出すためだとも言えましょう。鉱物や鉱石もそのまま地中に埋もれていたんでは、物の用に立たないように、今諸君らにしても、たとえその素質や才能は豊かだとしても、諸君たちが真に学問修養によって自己を練磨しようとしない限り、その才能も結局は朽ち果てる外ないでしょう。

◎読書(P.63)
読書はわれわれの生活中、最も重要なるものの一つであり、ある意味では、人間生活は読書がその半ばを占むべきだとさえ言えましょう。すなわちわれわれの人間生活は、その半ばはこれを読書に費やし、他の半分は、かくして知り得たところを実践して、それを現実の上に実現していくことだとも言えましょう。

いやしくも真に大志を抱く限り、そしてそれを実現しようとする以上、何よりもまず偉人や先哲の歩まれた足跡と、そこにこもる思想信念のほどを窺わざるを得ないでしょう。すなわち自分の抱いている志を、一体どうしたら実現し得るかと、千々に思いをくだく結果、必然に偉大な先人たちの歩んだ足跡をたどって、その苦心の跡を探ってみること以外に、その道のないことを知るのが常であります。ですから真に志を抱く人は、昔から分陰を惜しんで書物をむさぼり読んだものであり、否、読まずにはおれなかったのであります。

したがってかように考えて来ますと、読書などというものは、元来ひとから奨められるべき性質のものでないとも言えましょう。つまり人から奨められねば読まぬという程度の人間は、奨めてみたとて、結局たいしたことはないからです。

とにかく先にも申すように、読書はわれわれ人間にとっては心の養分ですから、一日読書を廃したら、それだけ真の自己はへたばるものと思わねばなりません。そこで諸君は、差し当たってまず「一日読まざれば一日衰える」と覚悟されるがよいでしょう。

◎人を知る標準(P.70)
人を知る標準としては、第一には、それがいかなる人を師匠としているか、ということであり、第二には、その人がいかなることをもって、自分の一生の目標としているかということであり、第三には、その人が今日までいかなる事をして来たかということ、すなわちその人の今日までの経歴であります。そして第四には、その人の愛読書がいかなるものかということであり、そして最後がその人の友人いかんということであります。大よそ以上五つの点を調べたならば、その人がいかなる人間であり、将来いかなる方向に向かって進むかということも、大体の見当はつくと言えましょう。

◎真の道徳修養(P.82)
真の道徳修養というものは、最もたくましい人間になることだと言ってもよいでしょう。すなわちいかなる艱難辛苦に遭おうとも、充容として人たる道を踏み外さないばかりか、この人生を、力強く生きぬいていけるような人間になることでしょう。

◎真の読書(P.107)
真の読書というものは、自己の内心のやむにやまれぬ要求から、ちょうど飢えたものが食を求め、渇した者が水を求めるようであってこそ、初めてその書物の価値を充分に吸収することができるのであって、もしそうでなくて、研究発表だとか、あるいは講演に行かねばならなくなったからなどといって、急にあちこちと人に聞きまわって読んだような本からは、同じ一冊の本を読んでも、その得るところは半分、否、三分の一にも及ばないでしょう。

◎人間の持つ世界の広さ深さ(P.107)
一人の人間の持つ世界の広さ深さは、要するにその人の読書の広さと深さに、比例すると言ってよいでしょう。すなわち諸君が将来何らかの事に当たって、必要の生じた場合、少なくともそれを処理する立場は、自分がかつて読んだ書物の中に、その示唆の求められる場合が少なくないでしょう。つまりかつての日、内心の要求に駆られて読んだ書物の中から、現在の自分の必要に対して、解決へのヒントが浮かび上がってくるわけです。

—(抜粋ここまで)

※出典:『修身教授録』(森信三・著、致知出版社)