私が高校1年生のころ、「政治・経済」の授業を担当されていたH先生という方がいらした。この先生は教育に携わりたいという想いが強く、勤務されていた東京ガスを退社され、母校の中央大学に戻って教員免許を取得。都内の某高校に地歴公民科の専任講師として奉職された。その後、会社でいうところの正社員扱いとなる「教諭」になるべく、昇格試験の受験を希望されたが、年齢上の理由から昇格は認められなかった。
当時40歳代前半であったと思われるH先生だが、社会人経験を生かして、いかに高校生が社会にコミットしていくかという点に注力されていた。夏休みになれば、クラスの生徒を2-3人ごとのグループに分けて、社会で起きている様々な問題についてテーマごとにレポートを作成させた。私の場合は、当時青島都知事が台場で開催予定だった世界都市博覧会を中止させたばかりであったので、その経緯について調べるべく、都庁の担当部署に出向いて職員の方に話を伺ったり、同時にサブテーマで東京都の下水道政策についても調べる事になり、汚泥を固めてブロック化することで建設資材に活用しているとか、そんなことをまとめて発表した記憶がある。
また、クラス全員で産経新聞の投書欄に応募しようということで40名全員でそれを行ったところ、「某学園のみなさんから投書が届きました。現代の高校生の意見を紹介します」と15cm四方の特集記事が産経新聞に組まれたりした。休み時間になれば、政治・経済の授業がない日でも先生は最新ニュースを名刺サイズの用紙にまとめてクラス全員に配っておられた。プリントには「記者:H」と添えて。
当時の私にとっては、先生のご苦労なんて想像だにしなかったが、今になってやっと、「H先生は本気で生徒と向き合っていたな」ということが痛いほどに伝わってくる。本気というものは即効で生徒に伝わるのではなく、10年から20年かけてジワジワと伝わるということなのだ。さて、H先生が授業中に度々黒板に書かれて力説しておられた言葉がある。それが、
『至誠』
という言葉だ。誠に至る、誠を極める。誠を尽くせば、それは必ず人に伝わるし、それが君たちのこれからの最大の武器になる、というお話だったと思う。高校1年生のたった1年間、短い期間であったのに、今でもH先生の言葉は強く私の脳裏に刻み込まれている。社会人を経て教職に就かれたご苦労と凄みが、こういう所に出てくるのだろう。
先生は最後の授業で、「春から白根開善学校の教諭になります」と学校名を黒板に書かれた。
当時の私は「ふーん」程度の認識でしかなかったが、その独特の校名は印象に残っていて、その後私自身が教育業界に携わるようになって、東邦大学の教授であった本吉修二先生が群馬県の山の中に開設された、さまざまな特性・事情を抱える生徒も受け入れる、生徒に希望を与えることを目指した学校である事を知って、H先生の想いと重なってズシンと今の私の中に響いて伝わってくる。
「教科書は手段にすぎない。いま、その子に一番ふさわしい学習は何なのかを考えることが大事」
これは本吉校長の言葉である。H先生はH先生の社会科教員としての範囲内で、本吉校長は学校という枠の範囲内で、それぞれのフィールドの中で「生きた」学習を提供する事に心を砕かれた。この姿勢(至誠)を、私は見習わねばならないと、自分自身に戒めている。