言志耋録

「言志耋録(げんしてつろく)」は「言志四録」のうち佐藤一斎が80歳から82歳にかけて記した随想。佐藤一斎は江戸時代後期の儒学者で、門下生に佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠他幕末に活躍した英才を輩出している(勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰は象山の門下)。

先週に続き、気になった章句を読んでみたい。

—(引用ここから)
【2】教に三あり
教に三等有り。心教は化なり。躬教(きゅうきょう)は迹(せき)なり。言教(げんきょう)はすなわち言に資す。孔子曰わく、「予言う無からんと欲す」と。けだし心教を以て尚と為すなり。
(訳)教に3つの段階がある。第一の心教は別段の方法手段をとらず師によって自然に教化することである。第二の躬教は師の行為の跡を真似させる教えである。第三の言教は師が言葉で説き諭して導く教えで、言葉を方法としている。ところで孔子は「自分は言葉で説き諭すということはしないようにしたい」といった。思うにこのことは心教を最も高貴な教えとしていたのであろう。
(付記)「教化」という言葉は中国や日本では見られるが、西洋にはこの言葉に適応する言葉がないそうである。言葉がないということはそういう概念がないことである。即ち西洋の教えは主に知識を教えるものであるのに対して、この化は道徳的に感化して行くものである。
—(引用ここまで)

言葉で説教するのではなく、いかに「感化」の方向に指導のあり方を持っていくか。これは私にとっても重大なテーマである。口やかましく生徒を仕向けていくのは、ある意味容易なことなのかもしれない。しかしそういう分かりやすい導きではなく、言葉を使わずに感性に訴えかける、気づかせる指導というものを私は探している。

靴を揃えることもその一つだ。「靴を揃えなさい」ではなく、いかに生徒が整然と靴を並べられるようになるか。そういう環境、そういう方向性づくりを言葉を使わずにどのようにしていくか。

もちろん勉強も同様で、生徒に解法や答えを教えてしまうのは逆に楽なこと。ところが如何にして生徒自身が解法を見出すか、そのためのヒントの出し方、誘導の仕方、気づきのヒントとなるキーワードを生徒にどのように投げかけるか。与えられたものは右の耳から左の耳へ抜けていく。しかし、自分で気づいたものは自分の中に蓄積されていく。

本当の意味での学力を培うために、安易に教えない、孔子が言うところの「自分は言葉で説き諭すということはしないようにしたい」という想い。これを現代の寺子屋でしてみたいと考えているのが神尾塾のコンセプトの一つではある。

—(引用ここから)
【15】有字の書から無字の書へ
学を為すの初は、固(もと)より当(まさ)に有字の書を読むべし。学を為すこと之れ熟すれば、すなわち宜しく無字の書を読むべし。
(訳)学問のし始めは、いうまでもなく字のある書を読まねばならない。学問が上達してくれば、字のない書、即ち天地自然の理法、社会の実態、人情の機微などを読みとらなければならない。
—(引用ここまで)

目に見えるものの学問を進めていくうちに、目に見えないものを見えるようにならなければならないという。想像力を豊かに、過去と未来に思いを馳せることが出来る。これが知的な人間になるということだ。

—(引用ここから)
【17】学に志す者の心得
学に志すの士は、当(まさ)に自ら己を頼むべし。人の熱に因ること勿れ。淮南子(えなんじ)に曰わく、「火を乞うは、燧(すい)を取るに若(し)かず。汲(きゅう)を寄するは、井(せい)をうがつにしかず」と。己れを頼むを謂うなり。
(訳)学問に志して、人格を磨き上げようとする者は、頼む者は自分自身であると覚悟しなければならない。かりにも他人の熱を頼って暖めてもらうことなど思ってはならない。『淮南子』に「火を他人に乞い求めるよりは、自分で火打ち石をうって火を出す方が宜しい。また、他人の汲み水をあてにするよりは、自分で井戸を掘る方が宜しい」と書いてある。このことは自分自身を頼れということである。
(付記)「天は自ら助くる者を助く」も同一の趣旨である。
—(引用ここまで)

自己肯定感を高めるということだろうか。神尾塾は「自己肯定力を育む」というキャッチコピーをしばらく使用していたが、自分を信じることは全ての第一歩と思う。

逆に、自己否定が強くなってしまうと、非行や心身の不調といったネガティブな現象が連鎖して出てくる。ビジネスでは自己改革の目的で「自己否定」という言葉が使われることもあるが、これはまず自己肯定があってこその自己否定であるので、大前提は自分を信じること、自己を肯定することが土台である。

—(引用ここから)
【37】学問をする心
学を為すには、人のこれを強うるを俟(ま)たず。必ずや心に感興(かんきょう)する所有って之を為し、躬(み)に持循(じじゅん)する所有って之れを執り、心に和楽する所有って之を成す。「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」とは、此れをいうなり。
(訳)学問をするには、他人から無理強いされてするのではない。必ず自分の心に感じ奮起する所があって之をなし、この心をすなおに持ち続けて、学問をつとめ行い、楽しむにいたって、学業が成就するのである。『論語』泰伯篇に「詩によって学をなすの心を興し、礼によってその志と行動を確立し、音楽によって徳を成就する」とあるのはまさにこのことを言っているのである。
—(引用ここまで)

大切なことなので繰り返す。「学問をするには、他人から無理強いされてするのではない。必ず自分の心に感じ奮起する所があって之をなし、この心をすなおに持ち続けて、学問をつとめ行い、楽しむにいたって、学業が成就するのである」、ここだ。

まあ、神尾塾で生徒に「勉強しなさい」なんて言った事はかつて一度もないと思うが、「自習しなさい」という強制自習のシステムでさえ、本当に生徒のためになるのだろうか、と自問自答している今日この頃である。

※出典:「言志四録(四)言志耋録」 佐藤一斎・著/川上正光全訳注(講談社学術文庫)