道徳教育の根本

「教育改革」が討論テーマとなった先月のテレビ朝日系「朝まで生テレビ」。道徳の教科化についても議論がなされたが、この中で司会の田原総一朗氏が「道徳は突き詰めれば人間学にならなければならない」と発言した。血の気の抜けた道徳の教科書を読ませて終わらせるのではなく、突き詰めて人間とは何か、ということを考えさせる教育にならなければいけないというのだ。

私は神社で「こうとくにんげん塾」という取り組みを行っているのだが、元々は宗教的・霊的真理のようなものを扱う勉強会から始めて、今では生きた学問としての「人間学」をやらねばならない、というところに私自身行き着いている。数多くの国内企業の発足に携わった渋沢栄一の思想、廣池千九郎のモラロジーといった、そのまま教科書として読めるものから、震災で遺体の捜索に携わった警察官の手記のように、人間にはなぜそういった悲劇が起こるのか、といったことを沈思黙考させるようなテーマも扱う。そこで一人ひとりが自分のあり方、これからの生き方に想いをはせるのが人間学ということだ。田原氏のいう「道徳は人間学にならなければならない」という意見に私は強く共感する。

さて、これをどのように子供たちに説いていくかということなのだが、私としては「あいさつをする」「言葉遣いを正す」「適切な敬語を使う」「使ったものを片付ける」「椅子をしまう」「相手に向けて両手で物を渡す」「食後の食器をきれいに整える」「男子は大便器では座って小用を足す」「靴をそろえる」「コンビニのレジで精算する際は無言でなく一言添える」といった基本中の基本をしつけることが真っ先だと考えている。

それらが出来ていない人が昨今あまりに多すぎるということなのだが、例えば学習塾でも「消しゴムのカスを机の上でまとめなさい」「両手で物を渡しなさい」といった所まで指導してる例はほとんどないと思う。こういった基本の行動を教化するのが真っ先で、それさえできれば道徳的な生き方の入口に立ったといえる。座学で道徳の教科書を読むのは、その先でよい。

行動面での意識を磨き、高めることで、いざ教科書としての道徳を読んだら素直に実感をもってこれを受けいれることが出来るようになるだろう。それが大人になって人間学へと開花していけばよい。