「我良し」にならない

「我良し」と書いて「われよし」と読むのだが、大雪が降ると、人々の対応の差が歴然と浮かび上がってくるのが興味深い。

日曜日は元々とある研修会の予定が入っていたため休塾日としていたのだが、まさかの「45年ぶりの大雪」に出くわして、休塾日にしておいてよかったと思わずにはいわれなかった。
ただ、研修に参加するという我欲を満たすよりも雪かきをすべきだろう、ということで一日雪かきに追われた。

日中、神社および近隣道路の雪かきを終え、富岡にある自宅までスコップ一本を担いで歩いていく。(路面の状態が悪く、車に乗るのは危険だった)

途中、鎌ヶ谷小学校の近くに自転車屋さんがあって、そこのおじさんは昔から朝になると登校する小学生や通勤で行き交うサラリーマンなどに「おはよう!」と声を掛けてくれている。今回の大雪では自転車屋さんをはじめ、その近所の人々が総出で雪かきをして、降った翌日の日曜日の午後には車道だけでなく歩道からも雪が消えていた。日頃から徳のある行動をする人の周りには徳のある人たちが集まり、さらに公徳心を出して公共の道路の雪かきをするのだなと思った。

更に道を進む。家の中から三味線の音がポロンポロンと聞こえてくる。しかし、その家の前は雪がそのままで危険な状態になっている。一晩越えれば凍結するだろう。スコップが無いとか、身体が不自由だとか、家庭にはそれぞれ事情があるだろうが、それでも一般的な印象として「のんきだな」と思った。

ケーキ屋さんの前を通った。お店は通常営業をしているらしい。しかし、店の前は雪景色が広がっている。ここにも事情はあるのかもしれないが、店を臨時休業してでも雪かきしていますよ、ぐらいの姿勢を見せれば、その店に対する好感度は高まって売り上げが上がるのだろうに、と何となく思った。(商売人への道徳を説いた、麗澤の創始者の廣池千九郎先生だったら恐らく同じことを仰るだろう)

雪道を長靴で歩いて45分。

自宅前に到着した。この場所は集合住宅と一戸建ての混在したような場所だが、道路はほとんど雪が手付かずの状態で残っていた。それでも犬を散歩させている初老の男性や、外でゴルフのクラブを素振りしている人もいる。「でもこのままだと明日の朝が大変だな…」と日暮れまでスコップを動かす。一度手をつけた所は雪が融けやすくなるからだ。

自宅の玄関先を雪かきするのは仕方がない。しかし、そこから一歩出て道路の雪かきをするのは並の苦労ではない。特に今回は積雪が深く、従来の大雪では1回のスコップさばきで取り除けた雪も、今回は2かき3かきを要するくらいだったから余計に大変だった。早くこんな作業を終えて部屋で温かくしていたいという気持ちにもなる。

しかし、こんな時こそ「我良し」の間逆の人間でいるように努めたいと思うのだ。「我良し」とは「自分さえ良ければいい」という考えのこと。「情けは人のためならず」という言葉もあるが、人に対して尽くしたことは回りまわって自分の境遇に跳ね返ってくる。だから、人を大切にするということは自分を大切にするということになるのだ。

雪かきをするのは自分が凍結した路面で滑らないため、という直接的なメリットもあるが、自分が他の地域の道路を走行したり歩かせてもらう中で、その地域の雪かきがなされているという恩恵を受けることになるのだから、その恩返しという意味もある。(実は私たちは日頃見知らぬ人たちから多大な恩恵を受けながら生きている)

「我良し」にならない、どうすれば相手が快適になれるか、相手が喜んでくれるのか。そんなことを意識しながら生きていきたいものである。