終身の憂あるも一朝の患なし

徳間書店「中国の古典~孟子」から抜粋して読んでみる。注釈はwikipediaを参照した。


『終身の憂(うれい)あるも一朝の患(うれい)なし』

君子が一般の人と異なるのは、自分の心を反省する点にある。君子は仁(注:他人に対する親愛の情、優しさ)と礼を基準にしてその心を反省する。仁徳を身につけた人は、人を愛し、礼にかなった人は、人を敬う。人を愛する者はいつも人に愛され、人を敬う者はいつも人に敬われる。かりに暴逆非道な仕打ちを受けたとしても、君子は必ずわが身を反省する。

「わたしが不仁なのだろう。無礼なのだろう。きっとそうだ。でなくて、どうしてこういうことになろう」

反省してみて、自分が仁であり、礼にかなっているのに、相手の暴逆非道が改まらないなら、君子はさらにわが身を反省する。

「きっと誠実さが足りないのだろう」

こう反省してみても、やはり自分の方が誠実であって、相手の暴逆が改まらない場合、君子はこう考える。

「相手は無法者なのだ。あのざまは犬畜生と何の違いがあろうか。畜生を非難したところで始まらぬ」

それゆえ君子には、生涯を通じての悩みはあっても、外からくる心の動揺などあり得ない。

その君子の悩みとは何か。舜(注:しゅん、中国神話に登場する君主)が人間なら自分も人間である、だが舜は天下に模範を示し、後世にその名を残した。それにひきかえて自分は、平々凡々の俗人にすぎぬ、という悩みである。これは悩むに足ることだ。ではどうしたらよいか。

舜を見習うこと、それだけだ。

君子には外からくる心の動揺がない。仁に悖(もと)ることは行わず、礼にはずれたことは行わないのだ。たとえ外から何がやって来ようと、悩まされることはない。

この文章は、まず出来る限り自己を見つめて、何事かが起こった時に、それは自分に原因があるのではないかと出来る限り反省(分析)をしてみることだと言っている。しかしそれでも解決しない場合、最終的には開き直ってしまって、「相手は畜生だ」と心の中で罵倒?して見切りをつける。そしてそれを悩みとして自己の中に持ち込まないようにする。

それゆえに、君子(立派な人)は外部から与えられる要因によって悩まされることも心がジタバタすることもなく、淡々と生きていくことができる。と、いう風に私は解釈している。

この「外からくる心の動揺がない」という所が大切だと私は見ており、何事かがあっても人間としての喜怒哀楽は持ちつつも、心の奥底が常に一定の平安を保っている状態、でもその芯には生きる情熱というマグマが沸々と燃えている状態。こういう境地を目指したいと思っているし、塾生にも周囲の雑音にいちいち一喜一憂せずに淡々と自分の仕事に取り組むという姿勢を培ってもらいたいと日々意識しながら教室を営んでいる。

好奇心を失わず世の中に広く関心を持ち、常に自分は何であるのか、どう生きるべきかを分析し続けること。そして起きる出来事を一つひとつよく観察し、洞察し、やがては自分なりの本質を見抜くこと。このようなことが日々大切なのではないかと私は考えている。

少し話はそれたが、本書の解説文のなかに『原因を自己に求めることは、忍従することではない。われこそ万象の主体なり、という誇りから生まれる責任感なのである』という記載があり、これに私は大変感銘を受けた。

結局のところ、自分が主体なのだ、ということだ。自分中心ということではなく、自分が宇宙(万象)の主体であり、自分が世の中の全ての出来事の「当事者」なのだということ。ちょっと難しい話かもしれないが、この辺はとても大切なことだと思う。