「修身教授録」の森信三先生が昭和14年、御年45歳で「西郷南州遺訓」について講義された記録が、『森信三講録 西郷南州の遺訓に学ぶ』(致知出版社)。
南州翁の遺訓数編と、森先生の解説を織り交ぜながら読んでみる。
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◎遺訓 七
【事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一時の詐謀(さぼう)を用う可からず。人多くは事の指支(さしつか)うる時に臨み、作略(さりゃく)を用て一旦其(そ)の指支(しじ)を通せば、跡(あと)は時宜(じぎ)次第工夫の出来る様に思へども、作略の煩(わざわ)ひ屹度(きっと)生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以て之れを行へば、目前には迂遠(うえん)なる様なれども、先きに行けば成功は早きもの也(なり)。】
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→セコい策略など用いずに、至誠をもって正々堂々と真正面から突破せよ!その方がよほど近道であるぞ!と南州翁(西郷隆盛)は説いておられる。
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◎真実の人
真実の人は詐謀(さぼう)を用いないのであります。同時に真実の人というものは永遠を見る人であります。これは現実には見透しの利く人であります。真実というものは主観的には私心をいれないということであり、私心をいれないということは常に己れの精一杯を尽くすということであります。(P.55)
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→これは森信三先生の解説。「常に己れの精一杯を尽くせ」と。
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◎全体としての根本態度の確立
予め気象を以ってうち克っていないと現実においての一事一事に克ち通すということは容易でない。すなわち全体的に生活の根本態度としてそこが確立せられていなければならぬ。単に一々の起こったことのみでなく、予め全体としての根本態度が確立していなければならぬというのであります。(P.115)
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→一つひとつ起きた出来事に一喜一憂しているのではなく、根本的に全体を俯瞰(ふかん)しながら腰が据わっていることが大事なのだ、と。
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◎真の学問
真の学問というものは、甘かった人間からその甘さが次第になくなるということでもあるのです。つまり学問が進むと共に人間としての甘さが次第にとれて行く、こういう一面が出て来なければ真の学問とはいえないのでありましょう。(P.132)
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→学問をして知識を得たり、科学を探究していくことで自分が磨かれるということも言えるだろうが、もうちょっと次元を落としてこの文を解釈すると、勉強という苦手なものと向き合い、その苦手なものから逃げずに困難に立ち向かうことで更に磨かれ、人間の甘さが抜けていく、という風にも読める。図星のご指摘。
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◎道
どうも校長にならねば教育の理想が行われないなどと、とかく考え易いのでありますが、これはつまり教育というものを外形的に考えた事柄であります。道はいかなるところにおいても行われるものであり、又そうでなくては真の道ではないのであります。訓導としても、首席としても、校長としても道の行われることに相違はないのであります。(P.138)
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→道。人生における道、という意味である。立場がどうだとか、そういうことは関係なく、自分の道はどこに居ても貫けるものだ、と説いている。
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◎己れを尽す
真実とは、畢竟(ひっきょう)己れを尽すということであります。かく己れを尽すことが真の真実であるならば、人間如何なる位置に置かれても、真実に生き得る筈であります。(P.139)
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→これは一つ前の「道」に通じる話。結局、どこに居ても「最善を尽くす」こと。これしかない。
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◎遺訓 二九
【道を行ふ者は、固(もと)より困厄(こんやく)に逢ふものなれば、如何なる艱難(かんなん)の地に立つとも、事の成否(せいひ)身の死生抔(しせいなど)に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆえ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌(しのが)んとならば、弥弥(いよいよ)道を行ひ道を楽む可(べ)し。予壮年(よそうねん)より艱難と云ふ艱難に罹(かか)りしゆえ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。】
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→西郷の達観が伝わってくる。西郷は明治維新の立役者ではあるけれども、明治政府の主流派ではなかった。むしろ時代遅れで、情に引きずられる古い人間だったのだと私は思う(だからこそ西南戦争に引き込まれた)。でも、その古い人間の言葉が時代を超えて今の時代に読み継がれ、現代の人々にも強い感銘を与えている。
それは文明開化の賑やかさや煌(きら)びやかさに足元をすくわれずに、「自分の道」というものを確かに西郷は持っていたからではないのか。流行とか最先端というのも必要だけれども、「自分のなにか」を持っている人間が、最も普遍的で強いということを教えてくれるように思う。
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◎真の学問
単なる概念の理会というものは真の学問ではないのでありまして、わが身にふみ行い、わが身に実現するということに至ってはじめて真の学問であります。(P.170)
◎譬(たと)えのうまさで体認の度をはかることができる
普遍なる理論を真にわが身に体し得て、はじめて譬えを引くことが出来るのであります。これを逆に申せば、譬えを縦横に引くことが出来るか否かによって、その人の体認の度の深浅をはかることが出来るともいい得るのであります。(P.170)
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→真に学問するということは、自分の骨身の中に染み込んでいくものだと。そして、そうなっているならば、自身が吸収したものを自分の言葉で、例えを用いながら自在に語ることが出来るはずだよね、と。もっと単純に言ってしまうと、「言い換え」出来るかどうかが、その学問を体得しているかどうかの判断基準になるのだ、と。
もう一つ、この前段の「単なる概念の理会(理解)というものは真の学問ではないのでありまして」という部分。何かを覚えたとか、現象を理解したというのはまだまだ学問をしたことにならないと森先生はおっしゃる。それが「わが身にふみ行い、わが身に実現する」という、自分自身のエキスになって自分の中から表現されることで初めて学問をしたことになるという、学問の奥深さを喝破しておられるのだ。ということは、現代の人々がよく言いがちな「数学は大人になったら使わないから」とか「受験が終わるまで我慢して勉強しなさい」的な、勉強するという行為を矮小化(わいしょうか)させた次元の低い意見は実に幼稚でくだらない、ということを断言しておこう。
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◎遺訓 三八
【世人(せじん)の唱ふる機会とは、多くは僥倖(ぎょうこう)の仕当てたるを言ふ。真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審(つまびら)かにして動くと云ふに在り。平日国天下(くにてんか)を憂ふる誠心(せいしん)厚からずして、只時(ただとき)のはずみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。】
◎真の機会とは真実の展開する必然性をいう
翁のいわれるには「そもそも機会といわれるものに二種類がある。普通世間の人々がいう処の機会とは、多くは偶然に出合う僥倖(ぎょうこう)をいうのである。ところが、真の機会というものは決してそういうまぐれあたりのものではないのである。真の機会とは理を尽したあげく行い、状勢の詳細を察した上で動くところから必然に生まれ来るものである。平日国家天下を憂うところの誠心厚からずしてただ時のはずみに乗じてなし得たような仕事は、決して永続するものではない」といわれるのであって、これは全くその通りと思うのであります。(P.179)
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→最後に南州翁と森先生の言葉を並べてみた。「機会=チャンス」は偶然訪れるものではない、と。全部の神経を働かせて考えながら、自分の全力を尽くして、その上でその理屈に沿って必然的に生まれてくるのが「本当のチャンス」である、と。だから、チャンスを生むも生まないも、良いことが起きるのも起きないのも、それは全部自分次第なのだという、何と力強い言葉ではないか。