せっかく外の景色が美しかったり、見ておくべきものが周囲にあふれているにも関わらず、そちらに目を向けずに自分の思いのたけをまくし立てて話す人がいる。個性は個性でよいのだが、もったいないなと思う。話すことが活発なのは明るく楽しいことだが、話し過ぎというのも内面のエネルギーを漏らすことになり、これを戒めとする古典も多い。
とにかく周囲の景色に関心を持つことは大切で、そのためには自分の中に「好奇心」の泉がわいていることが大切だ。新しいものや珍しいもの、自分の中にないものに興味を持ち、それをより知りたいとする探究心を持つ。
これは幼少期から知的な刺激を受けたり、外の色々な施設に出かけたり、分からないながらも美術品を見たり触れたりすることを積み重ねるうちに興味の種のようなものが育まれ、それがやがて線につながり面となって広がっていくことによって、その人の興味関心の領域が拡張していくのだと思う。
さて、このようにして「好奇心」と「他者への関心」という土台を養っておく。次の段階で、「観察」「洞察」「本質を見抜く」という3ステップが出てくる。
これも言葉で表現すると難しそうに聞こえてしまうのだが、とても簡単なことだ。まず、対象を観察する。そして、その周囲を取り巻いている状況、そのものが成立してきた背景などを、推測していく。その後、推測の包囲網を狭めていって、出来る限り本質・核心を見抜こうという意識を心がけながら、対象をみる。この3段階目のアプローチを「直観する」という。
直観というのは直感とは異なっており、直感はしょせん瞬間的に思うインスピレーションでしかない。しかし、直観は上記の過程を経て初めて得られる高度な知的活動でもある。この「直観」というものを心がけることによって生徒一人ひとりを見抜いていく。いや、100%常に正しいとは限らないから、「見抜こうと努める」。これが神尾塾における生徒に対する私の態度だ。
この直観の精度を高めるためにも、家庭の方との面談および通常の連絡・コミュニケーションというものが非常に重要なものとなってくるし、このようなことにまともに対応できない家庭があったのだとしたら、この塾には縁がない、ということになる。
話は若干横道にそれるが、
よく霊感があるか、ないか、ということに関心を持つ人がいるのだけれど、この霊感は一般的に直感の部類に属する。そして、俗にいう霊感のことは「サイキック」と称する。では「サイキック」の対義語は何かというと「スピリチュアル」という。スピリチュアルという言葉はこの近年で随分陳腐化され使い古されてしまったような感があるが、本来のイギリスの心霊主義の哲学からすれば最も崇高な位置づけが「スピリチュアル」とされる。つまり、人間の観察力、想像力、洞察力を元にしたものの見方のことであり、日本語でいう「直観」ということになる。
だから霊感があるかないかなどということはとても次元の低いくだらないことであり、そんなことはどうでもよい。それよりも、人間の努力として「直観」出来る力を身につけようとすること。私も道半ばだが、この辺を目指していきたいと思っている。