日本人らしさ

国語の問題を読んでいると、学生時代ならば見過ごしていた文章も、今の年齢になってしみじみ「これは素晴らしい人生訓ではないか」と思って繰り返し読めてしまう良文であることに気づく。中3向けのとあるテキストにこんな古文が掲載されていた。


【原文】
芝三島町に菓子をあきなふ新右衛門(しんゑもん)といへるは、小欲至直にして、日ごとに買ふ品の価をあらそふ事なく、売る人の言ふままにまかせてもとめければ、家内の者いぶかりて、「商人はいづれも同じ事にて、その価の高下をあらそふならひなるに、いかなればかく言ふままにはしたまふぞ。」と言ふを聞きて、「かれらは日ごとに重きを荷(にな)ひて、朝はとく出て、夕べには遅く帰る。ことに暑寒の折からはその苦しみ言ふべくもあらじ。おのれらは年中店に居て風雨のうれへもなく家業を営むは有りがたき事ならずや。たとひ人にもの施す事は為しがたくとも、せめてはその価をあらそはずしてもとめなば、少しはかれらがたすけともならんか。」と言ひける。後々は新右衛門が情ある事を知りて、売る者も価を低くして持ち来たりしとなん。
~大田南畝(おおたなんぽ)「仮名世説」~

【現代語訳】
芝三島町で菓子屋を営んでいる新右衛門は、欲が少なく大変正直で、日頃仕入れる商品の価格を値切ることなく、行商人の言うままに従って購入していたのだが、新右衛門の家の者がそれを怪しく思って、「商人は誰であっても、商品の価格について交渉する習慣があるのに、なぜあなたは売り手から示されたままの値段で仕入れてくるのか?」と言われたのを聞いて、新右衛門は「行商人は日々重い荷物を背負って、早朝に出発して夜遅くに帰宅しているのだ。特に暑かったり寒かったりの季節ならば、言葉では表現できないほどの厳しさであろう。お前たちは年じゅう店の中にいて、風や雨を心配することもなく仕事が出来ているが、それは有難いことではないか。たとえ何か物を施すようなことが出来なくても、せめてその価格だけは文句を言わずに購入してあげれば、少しでも行商人たちの助けにもなるであろうに」と言った。この後、新右衛門が情け深い人物であることを知って、行商人たちも値段を低くして、新右衛門のもとに商品を届けるようになったということだ。

「行商」というのは今ではすっかり見かけなくなったが、私が子供の頃、千葉の佐倉だったか八街だったかに住んでいたおばあさんが大きな箱を担いで野菜やら赤飯やらを毎週玄関先まで売りに来ていた。そんなに安い値段ではなかったように思うが、遠方からわざわざ売りに来ていることを思えば、無下に断ることも出来ない。

そんなことを思い出した。京成本線の行商専用列車は、今年の春に廃止になったようだ。

さて、この古文。

バカ正直でもいいから思いやりを胸に秘めて、ひけらかさない。 しみじみ、日本人だなあ…と思わせる話であった。