中庸

しばらくぶりの掲載となったが、金谷治先生の「大学・中庸」(岩波文庫)より『中庸』から2編抜粋してみる。一部漢字は調整した。

【1】
(書き下し)
広くこれを学び、つまびらかにこれを問い、慎みてこれを思い、明らかにこれを弁じ、厚くこれを行う。学ばざること有れば、これを学びてよくせざればおかざるなり。問わざること有れば、これを問いて知らざればおかざるなり。思わざること有れば、これを思いて得ざればおかざるなり。弁ぜざること有れば、これを弁じて明らかならざればおかざるなり。行わざること有れば、これを行いてあつからざればおかざるなり。

人一度これをよくすれば、己(おのれ)はこれを百度す。人十度してこれをよくすれば、己はこれを千度す。果たしてこの道をよくすれば、愚なりといえども必ず明らかに、柔なりといえども必ず強からん。

(現代語訳)
何事も広く学んで知識をひろめ、詳しく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析して判断し、丁寧に行き届いた実行をする。それが誠を実現しようと努める人のすることだ。まだ学んでいないことがあれば、それを学んで充分になるまで決してやめない。まだ質問していないことがあれば、それを問いただしてよく理解するまでやめない。まだよく考えていないことがあれば、それを思案して納得するまで決してやめない。まだ分析していないことがあれば、それを分析して明確になるまで決してやめない。まだ実行していないことがあれば、それを実行して充分に行き届くまで決してやめない。

他人が一の力で出来るとしたら、自分はそれに百倍の力を注ぎ、他人が十の力で出来るとしたら、自分は千の力を出す。もし本当にそうしたやり方が出来たなら、たとえ愚かな者でも必ず賢明になり、たとえ軟弱な者でも必ずしっかりした強者になるであろう。

【2】
(書き下し)
詩にいわく、「錦を衣(き)て絅(けい)を尚(くわ)う」と。その文の顕わるるを悪(にく)むなり。

故に君子の道は闇然(あんぜん)として、しかも日々に明らかに、小人の道は的然として、しかも日々に滅ぶ。君子の道は淡くして厭(いと)われず、おろそかにして文(あや)あり、温にして理あり。遠きの近きことを知り、風(ふう)のよることを知り、微の顕(けん)なることを知れば、もって徳に入るべし。

詩に云う、「潜みて伏するも、またはなはだこれ明らかなり」と。故に君子は内に省みてやましからず、志に悪(にく)むこと無し。君子の及ぶべからざる所の者は、それただ人の見ざる所か。君子は動かずしてしかも敬せられ、物言わずしてしかも信ぜらる。

(現代語訳)
『詩経』に、「錦の衣を着てその上から薄ものをかける」とあるのは、錦の模様がきらびやかに外に出るのを嫌ったものである。錦は薄ものを透かしてこそ美しい。

君子の踏み行うべき道は人目をひかないで、それでいて日に日にその真価が表れてくるものだが、つまらない小人の道ははっきりして人目をひきながら、それでいて日に日に消え失せてしまう。君子の踏み行う道はあっさりと淡白でありながらいつまでも人をひきつけ、簡素でありながら文彩があり、穏やかでありながら筋道がたっている。遠い所のことも近くから起こることをわきまえ、一般の風俗にもその根本の原因があるとわきまえ、微(かす)かなことほどかえって明らかになると知って、何事も身近な地味なことから始めれば、進んで徳の世界に入ることが出来るのだ。

『詩経』には「深く潜って隠れていても、やはりはっきりと顕れる」と歌われている。だから、君子は外を飾るよりも内心を修め、内に省みてやましいところを持たず、心に恥じることもない。凡人には及びもつかない君子の長所は、他でもない、他人にはうかがえないところ、その深い内心の境地にこそあるであろう。君子は内心の徳が充実しているので、行動を起こすまでもなく人から尊敬され、言葉を出すまでもなく人から信用されるのである。