中庸章句

儒教の基本となる四書(ししょ)に「論語」「孟子」「大学」「中庸」の4種があることは前回記したが、今日は『中庸章句』序から。
出典は金谷治先生の「大学・中庸」(岩波文庫)。

—(抜粋要約ここから)
「人の心」と「道の心」という区別がある。人間は誰でも肉体的な形を持っているから、いかに上智の人であっても「人の心」を持たない訳にはいかず、反面でまた誰でも理に基づく本性を具えているから、下愚(げぐ)の人であっても「道の心」を持たないではおれない。二つの心が胸のうちで交じり合うことになる訳で、それを上手く整理する方法が分からないでいると危険な「人の心」はいよいよ危ういものになり、微妙な「道の心」はますます分かりにくいものになってしまう。
—(抜粋要約ここまで)

ここでいう「人の心」とは「理性を持たない動物的な心」と解釈してよいだろう。また、「道の心」とは「道徳的な心」と読みかえれば理解しやすい。人間は「人(動物)の心」と「道(道徳)の心」の両面を同時に持っており、これらが常に交じり合って葛藤(かっとう)を続けている。

この2つの心の区別を意識することが大切で、いまの自分の中にある「人(動物)の心」がどの程度なのか、「道(道徳)の心」がどの程度なのか、この立ち位置を意識しておかねばならない。心の中でこの両者の整理がつかないと、「人(動物)の心」が暴走してしまうことも起こるし、「道(道徳)の心」も自覚出来なくなってしまう、と指摘している。

—(抜粋要約ここから)
そこで、「人の心」と「道の心」の区別を詳しく見極めて混同しないことであり、本来の心の正常を守ってそれから離れないことである。そうしたことを絶え間なく実践して、「道の心」がいつも我が身全体の主宰者となり、「人の心」がいつも「道の心」の命令に従うという様にならせると、危険なものも安泰になり、微妙なものもはっきりして、自然に起居動作や言語の上でも過ぎたり及ばなかったりするような間違いがなく、つまりぴったりと「中(ちゅう)を守る」ことが出来るようになるのである。
—(抜粋要約ここまで)

このあたりは「中庸」の中核と言ってもよいかもしれない。

「人(動物)の心」と「道(道徳)の心」を見極めることが大切で、自分はそれらを区別できる正常な状態にあるべきだということ。そういう精神状態になる努力を重ねた結果、「道(道徳)の心」が「人(動物)の心」を先導することが出来るようになる、ということ。そこで得られた境地が「中庸」の「中(ちゅう)」だと言っている。そうなれば、行動、振る舞い、言動の点でバランスのとれた行動が守れるようになる、と示しているのだ。

一つひとつの行動の陰に「人の心」と「道の心」が潜んでいる。この話は自分の心の観察のチェックポイントとなるだろう。

※「中庸」という書物は、2500年前の孔子の教えを基本として、孔子の孫の子思(しし)、さらに孟子、と弟子たちに引き継がれていった思想を、中国が宋であった時代(日本では平清盛の頃)に朱子という儒学者が再編集をして、世に送り出された。