老子

老子は紀元前6世紀、今からおよそ2500年前の中国の思想家(詳細は諸説あり)。日本でいうところの縄文時代の末期、日本人が稲作を始めた頃だ。『論語』の主人公は孔子であるが、老子が孔子から直接教授を受けたという話があるので、孔子が先輩で老子が後輩、共に同じ時代を生きていたと言える。

孔子の『論語』は20編512章で儒教(じゅきょう)の経典、老子の『老子(老子道徳経)』は81章で道教(どうきょう)の経典となっている。今日は『老子』の中からトピックを取り上げて私なりの解釈を加えてみたい。

◎第70章「言(げん)に宗(そう)あり、事に君(くん)あり」
~いかなる理論にせよ、それぞれに基本原理を持つものだ~

数学・理科に当てはめると分かり易い。小学生の「単位量あたりの大きさ」「割合」「小数の倍」は教科書を見るとそれぞれ異なる解き方が示されているのだが、一つひとつを追いかけていると頭が混乱してしまう。それよりも、まずは「の=掛け算、は=イコール」を使って言葉を式に置き換えることで、ワンパターンの解法で決着をつけることが出来る。
高校数学であれば、三角関数の加法定理を覚えておけばそこから多くの公式が自力で導き出せるのと同様だ。私自身も授業においては出来る限り『普遍的』で『シンプル』な事項を生徒に強調して伝えるよう努めている。アレやコレやとバラバラにたくさん公式を丸暗記しなくても、基本原理を押さえておけば自力で応用をきかせて、枝葉を広げて自分で各種の公式を導くことが出来るようになる。
これは勉強に限ったことではないが、目の前の森羅万象の現象の奥に流れているもの(基本原理)。これを見つめる目を養いたいものである。

◎第71章「不知(ふち)を知れば上(じょう)、知(ち)を知らざれば病(びょう)」
~知の限界を悟るのが真の知であり、知の限界を覚らぬのは迷妄(めいもう)である~

知識を広げることは大切で、何事も知らないよりは知っておくに越したことはない。しかし、知っているからといってそれが偉い訳ではない。「俺は知っている。お前は知らないのか。お前バカだな」のようなことではいけない。知識は一つの方便(道具)に過ぎなく、それを使って何を考え、どう行動するかが肝要なのである。

私たちが学ぶ(勉強する)目的を書いてみたい。勉強をすることで私たちの知らなかった世界を知り、古今東西の知識と智恵を学ぶ。そして実生活では何事にも「観察」することを怠らずに、社会がどういうものなのか、自分は何をすべきなのかを考え続ける。これを「洞察(どうさつ)」と言う。知識としての学びと、日常の観察力・洞察力をリンクさせることを心がけていくうちに、よりよい生き方、正しい生き方というものがあるとすれば、その正しい生き方を目指す。これが「自分を磨く」ということである。

だから単に知識だけをかき集めても不毛であり、その先に人間の向上は無い。だから「知」には限界があり、あれを知っている、これを知っている、何を覚えている、ということだけを自慢するのは迷妄(めいもう)だと老子は喝破(かっぱ)しているのだ。

◎第73章「天網恢恢(てんもうかいかい)、疏(そ)にして失わず」
~天は何ひとつ取り落とすことがない~

悪いことをすれば遅かれ早かれその報復が返ってくるし、その逆も然りということだ。原因があるから結果が発生するという「因果の法則」も同義である。良いことをすればその徳が貯金されていくし、これが宇宙の法則であるのなら、やはり努力をすることに一切の無駄はないということになる。

◎最後に、第81章。これは徳間書店刊の「中国の思想」からそのまま抜粋してみる。声に出して読んでみたい。

読み下し『信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。聖人は積まず、既(ことごと)くもって人のためにしておのれいよいよ有し、既くもって人に与えておのれいよいよ多し。天の道は、利して害せず。聖人の道は、なして争わず』

現代語訳『真実を語る言葉は、飾り気がない。飾った言葉は、真実を語らない。行いが正しい者の口は、雄弁ではない。雄弁な者は、行いが正しくない。真の知者は、もの知りではない。もの知りは、真の知者ではない。聖人は、自己のために徳を積むわけではない。ひとのためにすべてを捧げつくすが、そのことによってかえって限りなく豊かな境地を得るのだ。天の道は、万物を利するばかりで、これをそこなうことがない。これと同じく、聖人の道は、ひとにつくすだけで、自己を主張することがないのである』

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kamiojuku