劣等感を生まない

私は塾パンフレットに『自己肯定力を育む』と表記しているが、これはつまり『劣等感を持たせない』ということだ。数日前、とある生徒がかなり低い点数のつけられたテスト答案を持ってきた。その生徒がなかなか答案を私に見せようとしなかったのだが、点数を見てなるほどと思った。

その生徒が単にグータラしていて低い点数がつけられたのならば仕方が無い。しかし、私から見るに、その生徒なりの最善を尽くした上での点数である。ある意味、その時点での彼の限界点といっていいだろう。

私はむしろこういう出題をした学校に強く不信を感じた。あまり学校の批判はこの場ですべきでないと思うが、やはり、守る対象が生徒であるからには、あえて言っておかねばならない。これは某私立学校の話である。

少なくとも私が日常授業をするにあたって気をつけていることは、テストをするならば7-8割の得点が見込めること。宿題も同様に、7-8割の完成度を達成できるものを出題することである。つまり、仮にその生徒が100点満点中1点しか取れないような問題は絶対に出さない。

まして、その生徒の努力と限界点を教師が見抜いていれば、そのような無節操な出題はしない。むしろ、その生徒が低くつけられた点数を見て意欲喪失したり、そういう機会を重ねることで劣等感を持ち始めることを私は最大に危惧するのだ。

教える立場の者は、必要以上に神経質で細かな配慮が出来るべきで、型どおりの仕事しか出来ない人間は教師に向いていない。対象が集団であれ個別であれ、一人の人間にどれだけクローズアップ出来るかが教師力というものだろう。学校の先生を見ていると、この点の能力差が年々先生ごとに開いている印象を受ける。

私が思うに、劣等感をもった大人を作ってはいけないのである。もちろん、自身の劣等感、コンプレックスをバネにして、それを乗り越えようと努力し大成していく人間もいるだろう。しかし現実にはそういう人間ばかりではない。相手の欠点、弱点をあら探しし、そこを突くだけのことに喜びを見出す人間もいれば、他人をワナにかけ貶めることで自分の快楽(むしろ性癖)とする人間も現実には居る。自分の立ち位置は変わらなくても、相手を落とせば相対的に自分の位置が上になるということだ。

そういう人間は恐らく、幼少期から何らかの劣等感を抱えたまま大人になってしまったのだろう。(一概には言えないが、『苦労』を経てこなかった人間ほど逆に劣等感を持ちやすい気がする。苦労の度合い、何をもって「苦労」とするかの定義の議論は別として。)

「寂しさが罪をつくる」という言葉は、私が敬愛するクリスチャンの師の言葉だが、まさにそういうことだ。塾であれ、学校であれ、素晴らしい先生との出会いもあれば、その真逆もあったりする。先生が生徒を追いつめ、生徒を「自己否定」の境地に追い込むこともある。意欲を失い、気力を奪われた生徒を私はこの目で何人も見てきた。それはあまりに無残で、血の流れない人殺しであると私は思っている。

指導が先生の個人的なストレス発散の材料となってはいけない。また、「みんながこうだから、あなたも」という型通りの教育を個々人に押し付けることも、時代遅れである。教育の本質は「劣等感を生まないこと」、それを大前提として「自己肯定力を育む」ことである。