安岡正篤一日一語

★偉大な修行などというと、どんな奇抜な人間離れしたことをすることかなどと思う間は、まだ何もわかって居らぬのである。尋常日用の工夫に徹するのが大修行なのである。大いに悟りを開こうと思って、先ず仏という偉大な者の秘儀をつかもうとあせって居る僧に、趙州(じょうしゅう)和尚(おしょう)は答えた。朝食は食ったか。はい、いただきました。食器をよくかたづけなさい、と。
(致知出版社刊、「安岡正篤一日一語」より)

【解説】
どんな大きいことを語ったとしても、足元のことをしっかりしなければ意味がないということだろう。極端な話、私は勉強が出来なくても、あいさつや身の回りのことや礼儀がきちんと出来ているのであれば、人間の第一条件としてまずは充分だと考えている。成績を上げるというのは二の次の話だ。

本メールの冒頭の話もそうだが、人間としての基本的なことは神尾塾できちんとやっていきたいと考えている。生徒一人ひとりに、やはり人望のある人間になってほしいと願うからだ。

しかし、モノを相手の向きに回して渡すなど、出来ている子もいるが、そうでない子もいたりする。そういう子はもしかすると、大人になるまで誰からもそれを教えてもらえなかったりするから、いざとなったときに「何だアイツ」と鼻で笑われるのである。これは恐ろしいことだ。学校も、家庭も、ましてその辺の学生アルバイト中心の学習塾が教えてくれるわけがない。そんなことでは駄目だ。人間も社会も駄目になる。

もうひとつ抜粋したくなったので、それを書いて今週はおしまい。

★事業でも、力づくでやっておると、いずれ競争になって困難になる。事業が人間性からにじみ出た、徳の力の現れであれば、これを徳業という。事業家は進んで徳業家にならないといけない。また、その人の徳が、古(いにしえ)に学び、歴史に通じ、いわゆる道に則っておれば、これを道業という。東洋人は事業だけでは満足しない。徳業にならないと満足しない。現代の悩みは、事業が徳業にならないで、利業・機業になってゆくことだ。
(同出典)