何を本位とするか

今日は「何を本位にして行動するか」という話をしてみたい。私は今は少なくとも「それが生徒本位であるかどうか」を大切な判断基準としている。

例えば塾の経営を取るか、生徒の都合を取るかによって行動が分かれる場合、無理のない範囲で出来る限り後者を優先している。塾の(組織の)論理を生徒に押しつけるようになった時点で、その塾は終わりだと思っている。例えば、その生徒には今数学が必要なのに、今日は英語の日だからと英語を押し付けるようなことだ。

一昨日、國學院大學の神道学科に通う4年生から就職に関する相談を受けたのだが、私はこの文章を学生に紹介した。

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悩み苦しむ人を思えば
可能な限り人類を救いたい
なんとしても救いたいというやむにやまれぬ
思いがわいてくる

それは
わが身の危険や生活上の困難に対する心配が
どれほど大きいものであれ
けっしておさえることのできない心の奥底からわきあがる
祈りにも似た願いであった
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これは昭和の宗教家、岡田茂吉公が自身の教えを宣布するに当たって発表した一文である。私はこの言葉を大切にしている。奉職先が神社であれ一般企業であれ、あくまでお客様本位の職業人であるべきことを忘れてほしくないという願いを、学生に伝えたかったのだ。

先月、テレビ東京のカンブリア宮殿を見ていたら、MCの作家村上龍が「儲かっている会社ほど、儲けようとしていない。お客様のためになり、お客様の役に立っている会社こそに自然とお客様が集まり、結果として収益に繋がっている」と分析していた。

何を本位にして行動するか。私ならば「生徒本位」であることを私自身忘れるわけにいかないのである。私が面談でよく、柔軟に、出来るだけカスタマイズして、と言っているのはこういう意味が根底にある。