子曰、知者樂水、仁者樂山。知者動、仁者静。知者樂、仁者壽。
(論語~雍也(ようや)第六143)
▼読み下し
子曰(しのたま)わく、知者(ちしゃ)は水を楽しみ、仁者(じんしゃ)は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は命長し。
▼現代語訳
孔子が言いました。「知者と仁者を水と山に例えてみるならば、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむと云えようか。知者の動きは流れて止まぬ水の如きものであり、仁者の静かなることはどっしりとした山の如きものである。知者は変化を好んで楽しみが尽きることがない。仁者は常にゆったりとしてあくせくしないから、長生きである」
▼解説
知者とは知識欲の大きい人、仁者は心の大きい人、と解釈してよいと思う。知識は追い求めればキリが無いが、心の大きい人は「何を知っている」とか「知らない」とか、そういうことにとらわれずにドッシリと構えている、という風に読んでよいと思う。
この次に紹介する149番で説いていることだが、何事もバランスが大事で、頭でっかちでも心でっかちなだけでも駄目で、その辺のバランスが必要ということでもある。たまに「自分は○○を知っている」と、知っていることを鼻にかけている人がいたりするが、それは何の意味の無い。例えば論語を暗唱しています、という人がいたら、それはそれで素晴しいが、もっと大切なのは、論語の生き方が日常に実践できているかどうかということだと思う。
余談だが、漢字・ひらがな・カタカナ・アルファベットを使いこなす日本語も、寿司もハンバーグもカレーも食べる日本食も、全て「中庸」がキーワードである。何であってもほどよく自分の中に取り込んで楽しんでしまうのが日本人の特徴。初詣もお彼岸もクリスマスも吸収できてしまうのは、それは日本人が無宗教で無節操だからではない。何事も寛容に、バランスよく取り入れて日常化してしまう日本人の特性である。これも「中庸」で説明がつく。
子曰、中庸之爲徳也、其至矣乎。
(論語~雍也(ようや)第六149)
▼読み下し
子曰(しのたま)わく、中庸(ちゅうよう)の徳たるや、それ至れるかな。
▼現代語訳
孔子が言いました。「中庸の徳というものは、人として至高のものである」
▼解説
中庸(ちゅうよう)とはニュートラルな状態。どちらに偏るわけでもなく、左と右の間のほどよいバランスに位置することを指す。例えば、AさんとBさんがケンカしていたとする。自分はどちらの言い分を聞くか。それは、一方に肩入れすることもなく、どちらの意見も聞くことである。一方の主張を鵜呑みにして、その意見を真実として受け取ってしまうと、重大な判断ミスをしかねない。
塾であれば、例えばお母さんと子供の主張が異なっている時に、両方とも話を聞く。お母さんの話を聞いたからといって、私は子供を一方的に責めない。その逆も然りである。
夫仁者、己欲立而立人、己欲逹而逹人。
(論語~雍也(ようや)第六150)
▼読み下し
それ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。
▼現代語訳
仁者(じんしゃ)とは、自分がこうありたい、ああなりたいと思うことはまず人にやってあげる。つまり、よく我が身に置き換えて己の欲する所を人に施して行く。
▼解説
自分がして欲しいと思うことを、人にしてあげよう。自分がして欲しくないと思うことは、人にしてはいけない。
思いやりが大切、ということだと思う。例えば塾では、生徒がプリント等を私に渡す時に、必ず向きを相手の見える向きに回してから渡すように指示している。帰宅する際には椅子をしっかり机の中にしまうということも、机の上の消しゴムのカスをまとめてから帰宅するということも、私としては「思いやり」を持ってもらいたいという願いを込めている。
相手が快適に過ごせるように自分が気を遣うということは、廻りめぐって自分の所に還ってくるものだ。「情けは人のためならず」である。どれだけ人を思いやる事が出来るか。これが人間力というものではないだろうか。