寂しさが罪をつくる

「寂しさが罪をつくる」…これは私が尊敬している、あるクリスチャンの先生の言葉である。私自身この先生の勉強会に参加していた時期がしばらくあり、今自分が神社で勉強会を主宰しているのはこの先生のお蔭であると言って過言ではない。神道とかキリスト教とか教派に関わらず宗教者としてのあり方を基礎から叩き込まれたつもりである。

この先生は若い頃マザー・テレサの下でボランティアを学び、日本に帰国してからは報酬を得ない宗教者としての活動と、献金を募り軽井沢にケア施設を設置したりされている。書籍も数冊出され、今も現役で活躍されている。

この「寂しさが罪をつくる」という言葉。子供であれ、大人であれ、問題を起こす人間の裏側には必ず「寂しさ」があると先生は指摘する。つまり愛情に満たされていないからこその、それを訴えるための無意識の行動が犯罪であったり、問題行動であるとする。

以下は私見だが、
世の中でいわゆる悪事を働く人間は、残念だが必ず存在する。そういう人間を観察していると、自分の「コンプレックス」を覆い隠すために、あえて他人を陥れることで、自分の立場を守ろうとしているという気がしてならない。変な例だが、国語の謙譲語。自分がへりくだることで相手を高めるのが謙譲語だが、その逆のようなもので、相手を貶めて下げることで、自分の高さを保つ、というか。

全てとは言い切れないだろうが、世の事件というものの根底に「コンプレックス」が糸を引いているような気がしてならないのである。自分が満たされていないから、自分が欠けていることを無意識のうちに自覚しているから、あえて他人を攻撃し、その足を引っ張ることで、その凋落(ちょうらく)を楽しみ、自身の快感と欲求を満たすのである。実に恐ろしすぎることだ。

教育、という側面から考えた時、教育の役割とは何かと問われれば、「コンプレックスを作らせない」。そういう教育こそが教育であると私は思う。これは恐らく、私が3年以上前に看板に掲示し始めた「自己肯定力を育む」という所に繋がってくると思うのだが、結局、自己否定させ、自信を失わせ、自分で歩く力を失わせるような指導法、生徒への接し方は、教育ではない。しかし、世の中には、教員自身が自分のプライドを守るために生徒を脅し、「お前は出来ない、駄目だ」的な洗脳で子供をつぶしている教員が少なくないと思う。

神尾塾は絶対にそうならないし、それを何よりも戒めている。人の道に外れることでない限り、生徒がそれなりの価値観を持って歩もうとしていることを私は絶対に否定しないし、むしろ、心から応援してあげたい。そして、学力という狭い価値観で測らざるを得ない社会の中で生き続けなければならない子どもたちに、少しでもプライドを保ち、その子なりの可能な限り身につけられる学力をつけさせ、少しでもコンプレックスを排した、自信と勇気ある人生を進めるよう、1mmでもいいから手助けをさせていただきたいのだ。