これも秋の面談で出てきた話題だが、「教えない」について。
当塾ではダラダラと私が講義を垂れ流すことをしない。
最低限の必要事項の説明、その場での暗記、調べ、演習、ヒント出しと、そのバランスと構成をもって如何にその生徒に「浸透」させるかに力点を置いている。
で、この「浸透」というテーマに無頓着な指導者は多く、「生徒に教える」「分かりやすく説明する」「楽しく過ごす」こういった次元で留まっている者は少なくない。
「浸透」というテーマに「時間」を掛け算する。
社会人でも、必要なことをその場でスッと吸収できるほど器用な人は少ない。分からないなりに格闘している内に、時間を過ごすうちに何となくその要諦をつかんでいくことも沢山ある。
「その場で教えてハイおしまい。じゃあ次」
みたいなことを繰り返していたら、それは上っ面で「授業をした」アリバイを作っただけで、進度は進んでいるように見えても本当にその生徒に浸透させた、指導したことにならないのである。実際、成績にも結びつかない。
先の記事に関連するが、自分にとって分からないことが出て来て
「分からない。どうしよう」という思いを持つ。この時点で問題提起が自分の中に根付くから、その「分からない」ことへの解決をその者自身で開始したことになる。
そして時間を経る内に、分からないなりに類題を見様見真似で解いたり、他の関連事項に触れたりしている内に、なるほどと腑に落ちる瞬間が必ず出てくる。それは数カ月、数年掛かるかもしれない。
指導者は、この時間の流れを読まなければならないのだ。
生徒にとってはその場で「スッキリ教えてもらえない」もどかしさや疑問・疑念を抱えさせつつ、時間を経て適切なタイミングでバシッと最終的な解説を注入して固着させていく。
ちなみに、一発で教えることが必要な時も勿論あるので、この話題は一面的に読んではいけない。