大阪においては、私の感覚では首都圏ほど中学入試・高校入試の受験競争が厳しくない。
当塾の「1.5次入試」についての考察を参照。
生徒数に対して学校数が少ないのが首都圏だとすれば
生徒数に対して学校数が多いのが大阪。
だから、高校入試であれば数少ない生徒をいかに均等に各高校に振り分けるかが、進路指導の大前提となる。大阪私立中高連も「私学はひとつ」のスローガンを掲げており、学校間競争を極力避けている。良く言えば共存、悪く言えば腐敗が起こりやすくなる。「私学はひとつ」の標ぼうは、生徒募集に困っている私学にとっては横並びで救済、過激な募集対策をしようする学校に対しては「目立ったことをするなよ」と恐喝の意味合いを持つのである。
これは、再編される4特別区の競争を促そうとした大阪都構想が否決された理由と、根底には同じものが流れているような気がする。
先日、十三の英真学園に行って気づいたことがある。
前身の大阪高等女子職業学校が昭和2年(1927)の創立で、十三駅から英真学園に向かう阪急線の踏切には今でも「女子職踏切」と踏切名が刻まれている。その後昭和27年(1952)に淀川女子高校と改称され、平成12年(2000)現校名に至るが、この女子職の創立年に注目すると大正後期から昭和初期の「大大阪(だいおおさか)時代」に一致する。
「大大阪時代」とは大阪市が東京市をしのぎ、世界有数の大都市として国内首位の人口を誇っていた時代。御堂筋線が開業したのも昭和8年(1933)でこの時期である。
現在、私立の受け皿校として機能している学校を見ると
◎あべの翔学(昭和4年・1929年、旧大阪女子商業学校)
◎昇陽(大正13年・1924年、旧淀之水女学校)
◎大阪偕星学園(昭和4年・1929年、旧此花商業学校)
と、大大阪時代に創立された学校が次々に出てくる。
私にとっては、戦後または昭和40年代、50年代の生徒急増期に作られた学校を首都圏で多数見てきただけに、戦前をルーツにもつ学校が大阪に多いことは驚きのひとつであったが、「大大阪時代」に人口も増え、経済成長に伴い学校も増えて福祉の機能も拡充したが、戦後、成長性のある部分がすっぽり首都圏に移転して、成長性の周縁にあった学校や福祉といった部分がドーナツ状に大阪に残された。言ってみれば「大大阪時代の生き残り」のようなものが2021年の現在において、後をひきずっている印象である。
先ほど「受け皿校」と書いてしまったが、これは各校を否定する意図ではなく、各校それぞれ最新の創意工夫をこらし、教職員の先生方も弛まぬ努力をされていることは言うまでもない。
以下はおとぎ話かもしれないが、仮に将来、日本の新首都が京阪奈地域に遷都することになれば、今度は現在の首都圏が100年も経たないうちに現在の大阪と同じジレンマを体験することになる。大阪で起きていることは、実は先駆的な課題であり、このかじ取りは極めて難しい。「私学はひとつ」はまんざら否定されるべきものでもなく、古い都市ならではの「皆が生き延びる知恵」の一つであったことは間違いないだろう。