10月21日より新京成線の北初富駅・新鎌ケ谷駅・初富駅の津田沼方面が高架化された。その後初富駅では旧線路の撤去作業が急ピッチで進められている。
線路のなくなった場所を眺めていると、こんな幅の狭い土地に電車が走っていたのか?と不思議に思えてくる。しかし、上り線がそうであるように、レールが敷かれているとキッチリ電車が通過できる幅であることが納得できる。
これは住宅にも言えることで、建物を壊して更地にしてみると、意外に土地を狭く感じることが多い。こんな場所によく住宅の機能が納まっていたなと驚いてしまうものだ。ところが建て替えで基礎を敷いて、ここは水まわり、ここはリビングと区画をつけていくとそれなりに納まりが成り立ってしまうものだ。
何が言いたいかというと、線路を敷くだけでここに電車が走る、という定義を土地に示すことが出来る。つまり何もない更地であれば漠然とした土地のままだが、線路がその土地に意味を与え、反対に(当たり前のことだが)線路でない場所も明確にすることが出来る。
時間においても同様で、休日をただ休日として漠然と過ごしたら「なんとなく一日が終わってしまった」となるが、「10時~11時は○○で買物」「11時から12時は○○で食事」「12時から13時は○○で観光」「13時から14時は○○で移動」のように時間を区切ってそれぞれに意味づけをしていけば、『今日は随分いろんなことをしたな』と、それなりに具体的な余韻の残る一日を過ごすことが可能になるのだ。
言葉もそうだ。インド人が経営するカレー専門店に入ったら、入店時でも商品を運ぶ時でもお会計でも「ナマステ~」と声を掛けられた。「ナマステっていつでも使えるんですか」と尋ねてみたら、「おはよう、おやすみ、ありがとう、いらっしゃいませ、また会おう、どんな時でも使えるのがナマステだよ」とそのインド人が教えてくれた。日本語では一つひとつ時と場合に応じて言葉を使い分けている。そうすることで日本語は繊細な感情や相手との距離感、時間帯といった情報を明確に相手に伝えている。
このように、漠然とした空間、時間、言葉を区切り、名前をつけて定義していくことで、自然や人工物まで世の中のあれこれを頭脳で理解しやすくし、細かく具体的に捉えてその豊かさを楽しんでいるのが人間という存在なのだろう。古事記だって最初は混沌とした宇宙から始まり、天と地、日と月、のように区別と定義を続けることで世の中の成り立ちを説いている。勉強も同じではないか。数には実数と虚数があり、実数には有理数と無理数がある。有理数には整数と分数があり、整数の中には自然数がある。といった具合に自然現象を細かくミクロで捉えて、より詳細に、より明確に自然の法則を分析しようとする取り組みが数学であったりするのだ。
何だか迷路に入ったような話になってしまったが、人間に名前をつけてAさんとBさんの違いを把握するように、世の中は「区別」と「定義(名づけ)」で出来ているのだ、ということを念頭に置いておけば、勉強で次から次へと出てくる新しい用語にも慌てたりメゲたりせずに、ある種の達観をもって見つめることが出来るのではないだろうか。