『水雲問答』『熊沢蕃山語録』に学ぶ~その3

安岡正篤先生の「現代活学講話選集」より更に続き。

人間を観るのに4つの見方があります。まず、人間の本質的要素は「徳性」である。これに付属的要素として「知性・知能」と「技能」がある。もうひとつ「徳性」に準じて大事な「習慣」がある。この4点から人間を考察すると、一番よく把握できます。(P.177)

「徳のある人」「徳のない人」という場面で使われる「徳」の話。
「知性・知能・技能」は付属的要素だという位置づけに注目。「勉強ができる」ということは、それが人物の優秀さと直結するのではなく、所詮『芸』に過ぎない、というのは過去記事の通り。「徳性」と並んで「習慣」もトップレベルに大切だと。これらの優先順位を刮目(かつもく)すべし。

太陽の色をスペクトルで分けると赤・橙(だいだい)・黄・緑・青・藍(あい)・紫と7色に分かれるが、中国では帝王の色を黄色としており、日本でも黄櫨袍(こうろほう)・黄櫨染(こうろぜん)のように、天皇陛下の衣服に黄色を使う。植物学者の共同研究によると、種子とか芽に黄色光線を当てると、一番成長が見事であるといいます。(P.204)

有職(ゆうそく)装束の講義でお世話になった八條先生のサイトより。色には序列がある。
http://www.kariginu.jp/kikata/5-1.htm

日本人は他民族にない弾力性、diversity(ダイバーシティー=多様性)を持っておる。外国人が日本に来て驚くのは、世界中の食べ物・飲み物があることである。ちょっと町を歩いても、朝鮮料理・フランス料理・インド料理・アメリカ料理、何でもあります。日本人はもうなんだって食べ、飲み、それをエンジョイすることができる。こんな舌や胃を持った国民というのはちょっとない。(P.216)

先日の「宇宙」の話もそうだが、今から56年前にdiversityという単語を引き出しておられた安岡先生の慧眼。
東京台場のフジテレビの近くにダイバーシティ東京という商業施設が2012年にオープンしたが、「台場だからダイバーシティなのかな」程度にしか私自身思っていなかったものを、その後社会的にも「diversity(多様性)」がトレンドとなり、現在のSDGsに準じる重要ワードとなっている。

同じように、日本人の精神・頭脳は非常にダイバーシティーに富んでおる。思想・信仰の上からも自由で寛容であり、古来の神道のほかに仏教が来れば仏教、儒教が来れば儒教、キリスト教が来ればキリスト教と、何でも取り入れる。そして、消化吸収して自分のものにしてしまい、食い物・飲み物と同じようにエンジョイする。日本独特の神道はいつの間にか儒教・仏教などを見事に取り入れて、たえず新しい神道を作っております。(P.218)

宗教がどう、という話ではなく、初詣も彼岸の墓参りもクリスマスも全部楽しんでしまう日本人はまさにdiversityの本家のようなもの。

一般的に道徳を特殊な問題のように考え、強制しなければ出来ないような先入観があるのではないか。人間は動物的段階から発達するにつれて、何が善、美、真実であるかといった価値観が考えられ、動物と違うようになってきた。そこに生まれてきたものが道徳であります。道徳は人間にとって一番自然なものであり、これをなくしたら、元の禽獣(きんじゅう)に戻ってしまいます。

早い話が「飲食する」ということが実はもう道徳である。いかに飲食するかという礼儀作法が、人間の肉体の道徳なのである。茶道の会席とか、小笠原流ばかり見て、窮屈(きゅうくつ)なことのように思う人がいるが、そうではない。

仏教とは何ぞやと考えておる雲水(うんすい=修行僧)に、趙州(じょうしゅう)和尚(778~897)が「お前はメシを食ったか」と聞いた。「いただきました」「茶碗を洗ったか」「洗いました」「よろしい、下がりなさい」と言うておる。そこで雲水はまた、「道とはなんぞや」ということを尋ねたのに対して、趙州和尚は「牆外底(しょうがいてい)」つまり、垣根(かきね)の外に道はあると言った。雲水は怒って「そんな道を尋ねているのではありません。仏教の大道(だいどう)を尋ねておるのです」「大道は長安に通ず」と和尚は答えている。大道ならあの長安に通じる道があると答えたのであります。

雲水は道を概念的に考えておるが、趙州和尚は、道、つまり信仰や宗教は日々の実践なんだと言う。つまり仏教も道徳なのであります。

礼儀作法も同じで、例えば正坐(せいざ)や坐禅(ざぜん)の修養は辛いと皆考えておるがそうではない。躾(しつけ)という字はうまくできている。身体を美しくする、体をきれいにする、人間の在り方・生き方・動き方を美しくするという、これが躾だ。

食事でも作法とは自然なもので、非常に美しい。箸やお椀の蓋の取り方でも、作法通りすれば実に合理的である。つまり、道徳や躾とは、人間の生活、人間の在り様、人間の動き方をいかに自然に、いかに真実にするかということである。人間が獣でなくて人間らしく生きる道が道徳で、それは極めて自然のことなのであります。

そこで、今度は師たるものが、言論よりも自然にお手本になることである。父母は子供の手本になる。子供は理屈を分からないけれども手本を見て習う。模倣の前に感化という働きがある。そこに、家庭における父母の道徳実習のデリカシーという微妙な点がある。子供を躾けることは子供を叱ったり強制することではなく、父母の在り方が、自然にお手本になるということであります。

晋の時代に謝安(しゃあん)という名宰相がおった。ある日、その奥さんが「あなたはちっとも子供を教えて下さらない」と言う。すると謝安は「いや、わしは年中教えているつもりだがな」と答えたという逸話がある。そのように、本当の家庭教育というのは、親そのものの普段の態度・姿勢次第なのであります。(P.231-235)

「道徳」とは机の前に座って読み物を読むことではない、ということがこれで断言できる。
塾に来てあいさつをすることも道徳だし、返事も道徳。きちんと消しゴムで字を消すことも道徳。更に、辞書でことばを調べることも道徳、途中式を順序立てて書くことも道徳。人間の行動すべてが「道徳」、実践そのものが「道徳」である、と。

出典:「先哲が説く指導者の条件 『水雲問答』『熊沢蕃山語録』に学ぶ」(安岡正篤・著、PHP文庫)