例えば英語で、Are you study English?と生徒が書いてしまったとする。直しをしたら、自力でDo you study English?と直せた。しかし、まだこの段階では「be動詞のare」と「一般動詞のstudy」が一文のなかで同時に並ぶことに違和感を感じていないほど習熟していない。ということは、この問題が半分目をつむっても正確に書けるように、この程度の単元を繰り返さないといけない。先に進んではならない。このように、基礎練習というものは本当に手間と時間のかかるものであるけれども、この地味な取り組みの先にしか明日は見えないはずである。
高校生になったが中学生の2次方程式の計算をすっかり忘れてしまった。もちろん高校でも2次方程式は出てくるが、そこで先生がその場で「こうですよ」と教えてしまったら本当にその生徒の力にはならない。まず自分が「分かっていないのだ」ということを自覚し、「自分の手元にある中学時代の教科書・問題集を引っ張り出して思い出し練習をしてみる、そして出来なかった宿題の直しをする」という一連の流れを徹底してやらなければその生徒にとって何の力にもならない。どこで大金を払って授業を受けようが、右の耳から左の耳へ抜けてしまうのだ。このように、塾の指導はお客様に喜んでいただくものではなく、生徒自身が明日同じような場面に出くわした時に、自力で解決できる術を身につけさせること、これが本当の指導というものだと思う。
その意味において、ただのお客様商売でしている薄っぺらい塾や先生というものが本当に多くなったと嘆かわしく思う。まあ、世の中は需要と供給なので、薄っぺらい需要があるということも事実なのだが。
さて。
熊本の慶応スクール、冨永賢宏先生のメルマガで元京大アメフト部の水野弥一監督のインタビュー記事を紹介してくださって、いたくじっくり読みこんでしまった。分からない人には分からないだろうが、分かる人にとっては「そうだよね!」と腑に落ちる内容と思う。
◎選手の自主性に任せるということは、あるレベルに達した人たちのなかでしか通用しない
◎選手をおだててヤル気を起こすなどという発想は大きな間違い
◎人につくってもらったヤル気などは、敵に一発やられただけで、あっという間に吹き飛ぶ
◎徹底的に基本を学んできた選手やチームであれば、「どんな結果になっても、それがオレだ。オレたちなのだ」としっかり自己評価できる