楠木正成の生涯

第2・4日曜の午前11時から神社で月次祭(つきなみさい)という祭祀とミニ勉強会をセットで行っているのだが、7月は2回にわたって「楠木正成」を取り上げることにした。宝島社新書から「真説 楠木正成の生涯」(家村和幸・著)が5月に出版されたばかりで、読んでみると胸に迫る箇所がいくつもあり、神社の勉強会どころか、これは今夏の塾の作文講座で生徒たちに読ませるべきだ、と思うようになった。

楠木正成については以下の通り。

楠木正成(くすのき まさしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家(きたばたけ あきいえ)とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880)には正一位を追贈された。(Wikipedia)

ということで、ここからは本文の抜粋。


正成(まさしげ)は、国中で貧しい者があれば知らせよ、という法を定めていた。これを訴える者があれば、貧困の詳細を尋ねたのであった。身の分際を超えて贅沢し、道楽にふけって貧しくなったのであれば、これを扶助しない。あるいは、「意に反して損をしてしまった。また、生来の老中が多い。子供が多い。二親を養っている」などと云う者があれば、それぞれの事情に応じて財を与えて、今後は貧しくならないやり方を教え、あるいは生計を立てる方法を知らなければ、これを教えたのであった。

さらに、工人(こうじん)がその職業に従事せず「貧しい」などと云えば、「それは役に立たない人である。盗人(ぬすっと)とは呼ばれていないが、国の盗人である。そもそも天地の間に、この世に生まれて天地の役に立たない者があるだろうか。あなたは幸いにも良い業を身につけていながら、その職業をなさず、貧民となることは、天地もこれを嫌悪するところである。楠木がどうして扶助しようか」と云って帰した。

一方で病気である者には、特別に憐(あわ)れんだものである。このようにするうちに、人々は皆、楠木正成という領主の恩がいかに深いものであるかを思うようになった。

* * *

楠木正成が湊川で散った一年前の春、正成が国へ下っていると、河内平岡の郡(こおり)(現在の東大阪市)から、「盗人(ぬすっと)である」とのことで捕らえられて来る者があった。正成は、この男と道で行き遭った。ことの子細を問うと、馬を盗んだとのことであった。正成が「どうしてそんなことをしたのか」と問うたならば、この者には一人の母がいた。発病していたので、医師を招いて、薬を服用したところ、医師が云うには、「米二石をいただければ治そう」とのことであった。これを約束して治療してもらうと、病気は少し癒えてきた。

この者は貧しかったので、米二石を持っていなかった。医師はしきりにこれを請求して、まだ病気が治っていないのに薬を与えなかった。この男は親しい人たちに向けて米を求めたところ、ある程度は頼ることができて、一石だけは何とかして支払うことができた。

医師が云うには、「お前は貧乏人である。約束していた米のあと一石を調(ととの)えなければ、良薬は与えられない」とのことだったので、近傍(きんぼう)の三宅の郷(さと)(現在の八尾市内)に忍び込んで馬を盗み取り、平野(三宅郷の西。現在の大阪市平野区。交通の要衝(ようしょう))の市場にて米三石で売った。一石を医師に支払い、一石を先ほどの借主に返済した。しばらくして、馬の主がこの馬を見つけてこれを尋ねたところ、この男が盗んだことが発覚した。

正成は、医師を呼んだ。千早に帰って詳しく尋ねると、あの男が云ったとおりであり、その母は子を思うあまりであろうか、病気が再発してすでに死にそうである。正成が云うには、「馬を盗んだのは、重罪である。命を助けるべきではない男である。が、その前に、どうしてここまで貧しい身となったのであろうか、それが知りたい。教えてくれるならば正成が公納を赦(ゆる)そう。公納十のうち二つを免除しよう。どうであろうか」とのことであった。

傍(かたわ)らにいた人が、「去年、あの男は半年間も足を痛めまして、田畑の耕作は少ししかできませんでした。塩干しの魚などを売って暮らしていた者でございます」と申した。<./p>

正成は、「そのように不運な者であったか。半年間、体を患(わずら)って仕事に就けなければ、貧しくなるのも当然のことであろう。馬の主は、馬を取り返したのであるから、あの男の命を私に預けよ。馬を買った者には、五石の米を与えることにすれば損はないであろう。馬の主にもまた、米二石(にこく)を与えよ。これはしばらく馬を使えなかったことの損失料である。また、買い主も代わりの馬を買うまでは、馬が無くて不自由するので、二石の米は利息である。元の馬の値段は三石なので合計して五石である」と云った。

続けて楠木は云う。

「医師は無道である。それほど不運な者から二石の米を取るということに何の道理もない。医師は慈悲(じひ)を専(もっぱ)らとするとさえ云われるものだ。そうであれば、慈悲があるならば謝礼がなくても与えるべき薬ではないのか。代価を調(ととの)えられない者には、そうあらねばならないのではないのか。医師がはなはだ貪欲であったがために、国に盗人ができてしまったのであるぞ。『貧しいがゆえに盗むのは罪が浅い』とその昔の法にある。しかし、盗人を罪としなければ国法ではない。あの男の小さな家を取り壊して焼き捨てよ」そして、「母に孝のある男である。新たな里へ往(い)かせて田畑をも作らせよ。家を作ってやれ」と云って、さらに米十石をお与えになったのである。

そして、「医師は無慈悲な人である。貪欲な人が国にあれば、人を損ずるものであるぞ。そうだ。私の分国には好ましくない」とのことで、河内・摂津・紀伊・和泉の四箇国から追い払った。このように、楠木は、少しでも欲深く邪(よこしま)な者であれば嫌い、正直に人の道を守って無欲である者を賞したのであった。

出典:「真説 楠木正成の生涯」(家村和幸・著、宝島社新書)