一期一会

現代は消費社会であるので、例えば使っていた消しゴムをなくしても「また買えばいいや」となるし、インターネットに流れる情報にしても、一つひとつの言葉を吟味するのではなく、どんどん読み流してどんどん記憶から消えていく、という風に一つひとつの出来事に対して味わいを感じることを失いがちだ。

人材にしても、一人の人間が適切に仕事を出来なければ「また別の人材を」となるし、大手個別塾ならば「先生と相性が合わなければ何回でも先生を交換できます」と宣伝でうたってしまうようなことにもなっている。

その都度の出来事やモノに対しての緊張感がなくなり、「一期一会(いちごいちえ)」という感性が育まれにくい時代ということが言えるだろう。

学校の授業であれば、先生が話している重要なことを聞いていなかったり、大切なプリントを配られても読んでいなかったりする。聞き逃したり読まなかったとしても、その後助けてもらったり補充される手段があることを知っているから、ますます人の話を聞かなくなったり、読まなくなったりするものである。

中学校における中間・期末テストの範囲表はその典型で、ワークのページ数だけでなく、どこに気をつけて勉強しておきなさい、と懇切丁寧に書かれていても、それが親切丁寧で情報が増えれば増えるほど、生徒にとっては緊張感が失われて読まなくなり、範囲表そのものが多くの生徒にとって形骸化された無機な一枚の紙と化してしまう。

これらを踏まえて、私としては一期一会の大切さを伝えるべく「一度しか言わない・書かない」ことを心掛けるようにしている。

塾通信の冒頭に掲載しているお知らせも、基本的に掲載は一度きりであるし、それを一字一句読み込んで、必要があればメモをして書き出してほしいとも考えている。

生徒であれば、例えば英語の五文型であったり、大切な骨格中の骨格は時間を掛けてきちんと教える。その代わりに一度しか教えない。後日その生徒が学習したことを正確に再現出来なければ、生徒が理解していない場合を除いて教え直すことはせず、「○月○日のノートを引っ張り出して再練習」のように一度学習したことを徹底的に反復させる。

大切なことは「一期一会」であり、一回出会ったもの、一度触れたものは必ず自分のモノにするという習慣をつけることによって、生徒にとって機会(チャンス)をモノに出来る人間になってもらいたいのだ。人生は回転寿司と同じで、どの皿を手にするかは個人の自由だ。しかし、どの皿に手を出すかによってその後の人生に天と地の差が生まれることもあるのが現実だろう。ましてや一度しか回ってこない皿もあるはずだ。

一期一会の観念が確立していれば、自分にとって何が必要で何が必要でないのか、と峻別(しゅんべつ)できる感性・感度も高まる。最終的に、人生そのものが一度きりだという緊張感と時間の有限性を理解して、その人の生き方そのものがより良くなっていく気がしている。